お店は、表参道ヒルズの『SPICA』。いかにも美保好みの洗練された雰囲気に、否が応にも気分は高まる。
この店を監修している吉田能シェフはYouTubeもしていて、美保も大ファンなのだ。我ながら完璧なサプライズプレゼントだという自信があった。
それなのに…。
「ねえ樹くん。櫂、大丈夫かな…」
「大丈夫だよ。ミルクも飲めるんだし、離乳食も始まってるし。母さんが3~4時間くらい楽勝だって言ってくれてるんだから」
「うん、それはそうだけど…」
美しい盛り付け。繊細な味わい。いかにも美保好みの料理が次から次へと運ばれてきているというのに、なぜだか美保の顔は曇ったままだった。
確かに、まだ母乳もあげているのだから、お酒が楽しめないのは誤算だったと思う。
けれど、一体どうしたというのだろう。
結局その夜はついに、美保から思ったような笑顔を引き出すことはできなかったのだった。
◆
「…というわけでね、検査入院の結果、肝臓機能障害とまではいかなかったんですけども…。
数値はあまりよくないですし、45歳とまだまだお若いですからね。退院後も健康的な生活を心がけていいただいてね…」
ディナーの翌日。
いつも通り出勤した僕は、入院していた患者さんへの退院の説明を行っていた。
だけど、説明を続ける僕に患者さん──椎名さんは、逆に心配そうな顔を浮かべる。
「先生、ありがとうございます。でも、なんだか先生の方こそ具合悪そうですけど…?」
「ちょっと、あなた…!」
同席していた奥様が、椎名さんを嗜める。けれど僕は「医者の不養生ってやつですかね」などと笑ってお茶を濁した。
椎名さんに指摘されたように、実際に気分は優れなかった。
その理由はもちろん、昨夜のサプライズディナーが失敗に終わったから。
帰宅してからも美保はすぐに櫂の面倒をみながら寝落ちしてしまって、ろくに話す暇もないまま今日を迎えている。それどころか今朝も、なんとなくギクシャクした雰囲気が続いていたのだ。
― はあ、何がいけなかったんだろう…。
診察室から夫婦仲睦まじく退出する椎名さんたちを見ながら、僕はまたため息をつく。
― とにかく、今日はなるべく早く帰ろう。
そう決意した僕は美保の本音を聞き出すべく、大急ぎで担当患者への検査や指示出しを済ませ、病棟のラウンドに向かうのだった。
◆
あれだけ急いだというのに結局、四ツ谷駅にたどり着いたのは20時過ぎだった。
― 昨日の美保、やっぱり怒ってたよな…。まだ機嫌悪かったらどうしよう。
出がけに夕飯は家で食べると伝えてきたものの、果たして食事が用意されているかどうかはわからない。
32歳にもなるというのに、女性の気持ちというものは僕にとっては、どんなに珍しい症例よりも理解しがたい難問だ。
「ただいま…」
20時すぎといえば、もう櫂はとっくに寝ているはずの時間だ。美保も寝ているかもと思った僕は、ふたりを起こしてしまわないよう、やっぱりいつも通りささやき声で帰宅を告げる。
相変わらず、部屋は散らかっている。
床に落ちたブランケット。開きっぱなしの絵本。山積みになったたたむ前の洗濯物に、足の踏み場もない状態のリビング。
だけど今夜はひとつだけ、いつもと違っているところがあった。
「あっ!おかえり、樹くん」
そう言って微笑みながら、美保が食卓についている。そしてその目の前には、信じられないほどのご馳走がずらりと並んでいたのだ。
「美保、これ…どうしたの?」
驚きの表情を浮かべる僕に、美保はまたしてもニコっと笑う。そして、絵画のように美しいテリーヌを盛り付けながら、恥ずかしそうに言った。
「あのね、実は…。『レザンファンギャテ』のテリーヌをお取り寄せしてたの。他にも、櫂をベビーカーに乗せてお散歩がてら、気になってたお店でいっぱいテイクアウトしてきちゃった」
「お取り寄せ?」
「うん。来月の結婚記念日を自宅でお祝いしようと思って、こっそり頼んでたの。でも…昨日おいしいお店に連れていってもらったら、我慢できなくなっちゃって!えいっと思って、今日出しちゃったんだ。
ね櫂、ちょうど今寝たところなの。今のうちに一緒に食べよ」
「あ…う、うん」
一体何がなんだかわからないまま、食卓につく。戸惑いながらテリーヌを突く僕に、美保は申し訳なさそうな目を向けて言葉を続けた。
「樹くん、昨日はごめんね。私に美味しいもの食べさせてくれようとしたんだよね。すごくうれしかった。でも…」
「でも?」
「私、ずっと早く結婚したい。早く家庭に入りたいって思ってたから、正直に言うと、家庭のことはもっと完璧にできるつもりでいたの。
だけど実際にやってみると、部屋はご覧の通り荒れ放題だし…そう簡単じゃなくて。せっかく専業主婦までさせてもらってるのに、本当に申し訳ないんだけど…」
美保の表情は、みるみる曇っていく。その言葉の続きが怖かった。
もしかしたらこれは、最後の晩餐──?
恐ろしさのあまりごくりとつばを飲み下しながら僕は、絞り出すように「けど…?」と続きを促す。
けれど、次に美保が放った言葉は、僕の予想とは全く違うものだったのだ。
「申し訳ないんだけど、私…。今は外食よりも何よりも、ゆっくりする時間が欲しくて。
もし私のことを考えてくれるなら、たまーに洗い物とか代わってもらえると嬉しい!あと、もしお母様に櫂を見ていただけるなら、たまにでいいから昼寝もしたいの!」
「洗い物に、昼寝…??」
拍子抜けしたあまり、すでに椅子に腰掛けているにもかかわらず、膝から崩れ落ちそうになる。
大学病院で途方もないバイタリティの持ち主たちに囲まれているがあまり、僕は大切なことを見失っていたらしい。
美保が必要としているのは、夜な夜な街にグルメに繰り出すことではなく、そんなささやかな時間だったのだ。
「そんなこと言われないと気づかないなんて…本当にごめん…!もう32歳のいい大人なのに、本当に自分が情けない…」
頭を抱える僕に対し、美保は慌てて首を振る。
「ううん、仕事に専念してってお願いしたのは私だもん!樹くん、いつもお仕事頑張ってくれて本当にありがとう。
美味しいお店に行くのは先の楽しみにとっておいて、今はこんなふうに、今の私たちだからできる楽しみ方をしたいな」
「うん…うん、そうだね」
美保といると、いつも教わることばかりだ。
もしかしたら、磯部先生につくよりも勉強になるかもしれない。32歳にもなったのに、育てられているような感覚に陥るときがある。
「じゃあ…改めて、食べよっか」
ふたりそろっていただきますと言おうとした、その時だった。寝室から、櫂の激しく泣く声がした。
「あ…、櫂が泣いてる」
席を立とうとする美保を止めて、僕は宣言する。
「僕が見るから。美保はゆっくり食べてて。それから、今夜は洗い物も僕がするからね」
「樹くん…ありがとう」
寝室で待つ息子のもとへと向かいながら、僕は思う。
もう32歳のいい大人だけれど、夫としても父親としても僕はまだ、赤ちゃんみたいなものなのかもしれない。
今夜は夜泣きの担当をしながら、息子に語りかけてみよう。
「一緒に大きくなろうな」、と───。
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45歳。体の不調を覚え始めた椎名が、妻に対して思うこと
この記事へのコメント
皆川先生、こんなにステキな奥さんがいて幸せだね。