「桜庭さん、強いですね。顔色ひとつ変わってない」
2杯目のビールを飲んでいる途中で、澤石さんに言われる。私は、「そうなのよね」と曖昧な返事をして、壁の黒板に貼られているメニューに目をやった。
30分ほど前。残業を終えて1階のカフェに行くと、澤石さんは「お疲れ様です」と笑顔で会釈をした。そして流れで、オフィスからも近い、新橋駅すぐのカジュアルな居酒屋に来た。
20時を過ぎて、ほどよく盛り上がっている店内が心地いい。
「なんか、追加しますか?」
澤石さんに問われて、私は「うーん」という。
唐揚げや牡蠣グラタンなど、お腹にたまりそうなものを頼んでいた。でも本当はここは酒盗や、あん肝ポン酢が絶品なのだ。
ぜひとも頼んで日本酒に行きたいと思うが、澤石さんがあまり飲まない人っぽいので、気が引ける。
ここは、サクッとお腹を満たして帰るのが賢明だろう。
「あ、僕、お酒は弱いからゆっくりですが、居酒屋の食事が大好きなんです。まだ8時台だし、いくつか追加しましょうよ。日本酒とか飲みますか?」
心を読まれたかのようで、私は目を丸くしてしまった。
結局、日本酒をグラスで頼んだ。澤石さんは、1杯目のビールジョッキをようやく空けた。白かった肌が赤くなり、お風呂上がりのようにツヤツヤしている。
― この人、何歳なんだろうか。
年齢を聞いたら何かしらのハラスメントになりそうなので、私は入社年次を聞く。
「僕は2023年入社で、3年目になったばっかりです。同期の人事だった子が辞めてしまった関係で、この春に営業から異動してきました」
― びっくり。しっかりしているからもう少し年上だと思ってた。
これも口に出したらハラスメントになりそうで、代わりに私はおちょこに口をつける。
「僕、2000年生まれなんですよ。年齢が数えやすくて便利です。4月生まれなので、同期より先に25歳になりました」
「4月生まれなんだ!私も4月です」
ということは、5歳差か。
先ほどから澤石さんはよく話す。おかげで、気まずさが一切なく、普通に楽しい。
コロナの影響で大学生活が途中から様変わりしてしまったこと。就職活動もオンラインばかりで苦労したことなどを話してくれた。
そして、彼も同じ青山学院大学を出ていることが発覚し、より一層盛り上がる。気づけば22時になっていた。
「うわ、こんな時間。明日も仕事なのにごめんなさい。お会計しましょう」
なぜかまた支払おうとしてくれる澤石さんを制止して、店員さんにカードを渡す。お店を出ると、心地よく酔って、頭がふわふわしていた。
「桜庭さんの飲み方、かっこいいです。見ていて気持ちがいい」
「やめてよ」と私は笑いながらうつむく。
すると澤石さんは「またお誘いしてもいいですか?」と言った。
「うん。また行きましょう。楽しかったです」
JR線に乗るという澤石さんと別れ、私は銀座線に乗り込む。
― 研修のことを謝罪される会だと思ってたけど、そんなことなかったな。
去り際につい言ってしまうくらい、本当に楽しかった。
― ああ、そういえば、本の話をし忘れた。普段どんな本を読んでるか、知りたかったな。
あれ。どうしよう。
マッチングアプリで出会った相手には感じなかった、心の深い部分が動く、この感じ。
そのときスマホが震える。交換したばかりの、澤石さんのLINEアカウントから、通知が来ている。
『澤石蒼人:ありがとうございました。次は金曜日の夜にしましょう。来週とかどうですか?』
一瞬、心臓がドキンと脈打つ。
― いや、あり得ないから。だって25歳だよ?…ってまあ、向こうからしても、ただの先輩だよね。
私はなんだかぼうっとしてしまって、地下鉄の窓が切り取った真っ黒い景色を、ただただ見つめていた。
▶前回:「バリキャリ」って言われると、嫌味に聞こえる…。大手IT企業30歳独身女性の本音
▶1話目はこちら:「時短で働く女性が正直羨ましい…」独身バリキャリ女のモヤモヤ
▶NEXT:6月11日 水曜更新予定
後輩・澤石から次のお誘いが。恋の予感に混乱する菜穂は、あることに悩み始め…?
この記事へのコメント
本を読む人でも残業してるのを2時間も待てるのはすごいこと。
もう謝ったし、人事部全体で決まったことだからこれい事の謝罪のためではないし、女として興味がなかったら絶対にできないことだと思います。良かったね。