結果訪れたのは、恵比寿の隠れ家イタリアン『Uno Staio』。
今までどんな女の子を連れていっても好評だったテッパンの店だけれど、いくら立食パーティーであまり食べられなかったからといって、中華の後にイタリアンはどう考えてもさすがにやりすぎだ。
しかもあろうことか、緊張のあまり予約すらしないで移動してきてしまったため、席はテラス席しか空いていなかった。
― 他の女の子となら、もっとうまくできるのに…!
32歳の男としてあるまじきエスコート力の低さに、自分で自分がいやになる。
それなのに美玖子さんは、三日月の笑顔でこう言ってくれるのだった。
「はぁ〜、テラス席が気持ちいい時季になったねぇ。真田くん、素敵なお店に連れてきてくれてありがとうね」
「そんな…」
僕が言い淀んでいると、「お待たせしました」という声とともに、最高に美味しいボリューミーなパスタがサーブされる。
「わーい!」
美玖子さんは子どものように瞳を輝かせ、気持ちいいくらいの食べっぷりで美味しそうにパスタを食べ始めた。
「あの…すいません。テラス席、寒くないですか?」
「全然!最高に気持ちいいじゃない。逆に外に座れてラッキー!パスタも美味しいよ」
男というものは、単純でバカな生き物だ。
それとも、32歳の男が特別にバカなのだろうか?
女性に優しくされれば嬉しいはずなのに、自分に自信が持てないと、その優しさに相応しくない自分が嫌で消えてしまいたくなるのだった。
「なんか、すいません」
気がつけば、僕の口からはまた情けない謝罪の言葉が溢れていた。
すると美玖子さんは、手に持っていたフォークを置いたかと思うと、僕のことを真っすぐ見つめて言った。
「ほら、そんなに謝ってばっかりいないの。別れた元夫なんて何にも謝らない人だったけど、謝りすぎもそれはそれで問題だよ」
美玖子さんの口からふいに飛び出てきた「元夫」という言葉に、僕はほんのわずかに動揺してしまう。
そうだった。あまりに長く憧れ続けてきたから、心の奥隅に整理してしまっていたけれど、美玖子さんはバツイチなのだ。
噂に聞いた話では、遊び人だった元夫との生活に思い悩んで、離婚を機に再就職したはず。
誰よりも自分が傷ついているはずなのに、笑顔を絶やさず周囲に優しく振る舞う美玖子さんの姿を見て──。
そうだ。それが、美玖子さんに対して初めて特別な気持ちを抱いた瞬間だった。
「私、実は今日ちょっとショックなことがあってね。こうしてヤケ食いに付き合ってくれる人がいるの、本当にすごく嬉しいんだ」
「そうなんですか?」
「そうなの。あーあ。こんなにしんどいの、離婚の時以来かも。ね。だからホラ、一緒に食べよう」
一体、元夫との間に───社長との間になにがあったんだろう。
「何があったんですか?」と聞くことは、きっと僕にもできたと思う。
だけど、聞かなかった。
美玖子さんの僕に話す口調は、まるで子どもに言い聞かせるような優しさを孕んでいる。
そんな相手に話す内容ではないのだろうし、僕自身、美玖子さんの話を聞く資格を持っている自信がなかった。
夜空の下、ふたりでパスタを食べながら、取り留めのない会話を続ける。
そして思ったのだ。
― わかった。美玖子さんが優しいのは、大人だからだ。そして、美玖子さんが大人なのは…
悲しみを知っているから、だ。
テラス席からは、恵比寿の夜空が見えた。
街の明るさで、星はあまり見えない。ぼんやりとした夜空に見えるのは、美玖子さんの笑顔みたいな、優しい三日月だけだった。
傷ついてみよう、と思った。
世の中にはどうにもならないことがある…という残酷な現実は、そうかもしれない。
どれだけ急いで成長しても、美玖子さんと俺の歳の差だけは縮まらない。
だけど、「まだ何もわからない32歳」なんて、自分に言い訳している場合じゃない。自信がないままでは、大人になることなんてできない。
周りの32歳みたいに妥協という武器を手に入れられない以上、いつか美玖子さんに頼りにしてもらえるような、本当の大人の男になりたかった。
― 好きな女性にまったく恋愛対象として見てもらえていない自分のことを、ちゃんと認めるんだ。
他の女性に逃げるのも、他の誰かと比べて縮こまるのも、もうやめだ。
そうすればいつかは、僕も優しくなれるだろうか?彼女の真実に向き合える時が来るだろうか?
分からないことばかりだけれど、きちんと傷ついて、知りたいと思う。
32歳の夜。
三日月は、夜空に残った深い傷のようにも見える。
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32歳の真田が、想像もつかない年上の気持ち。だけど、45歳にも劣等感はあり…
この記事へのコメント
なんかゆるくない? もっとアルデンテが良かったよ。
ただ美玖子は止めておく方がいいかなと。