店長は桃子の涙が落ち着くまで待って、名刺のQRコードを読み取ってみるように言った。桃子が従うと、そこには。
「…心が壊れそうな、夜…」
自分が呟いたことすら気がつかぬ様子で携帯画面にくぎ付けになったままの桃子に、店長が説明した。
その店では予約客は必ず1組だけという貸し切りで、女性店長が話を聞いてくれること。秘密保持契約書が交わされ守秘義務を負う店なので、どんな秘密を話しても誰かにもれることはないこと。
そしていざとなれば、悩みに合わせた法的な専門家を紹介してもらうことも可能だということも。
「そんな店があるなんて…でも…」
お金、ぼったくられたりしません?そう遠慮がちに聞くと、店長が小さく笑った…ような気がしたけれど、その表情は変わらぬままで。気のせいだったのかもと思った桃子に店長が続けた。
「このTOUGH COOKIESという店は、うちのオーナーが、この街で頑張る女性たちのためにと作った店なんです。ぼったくりはそのオーナーが…彼女が一番嫌う言葉ですから、あり得ませんし、支払いはお客様が頼まれた飲食代だけです。
値段はうちとほぼ変わりませんから、ご参考までに」
そう言って店長が差し出したメニューに書かれていたのは、確かにごく常識的な、むしろこの辺りの相場では少し安いくらいともいえる酒の値段だった。
「その店で…ただ話してみるだけでも、人生が変わるかもしれませんよ」
店長のその言葉は、不思議と桃子に響いた。今日会ったばかりの人なのに。いや違う。今日出会うことができた人、なのかもしれない。そう思えた。
― このままでも苦しい日々が続く。それなら、いっそ。
こうして水原桃子はTOUGH COOKIESを訪ねることを決意した。
◆
― 店員さん、2人とも綺麗だなぁ。
ドアを開けてくれた褐色肌のルビーというグラマラスな女性も、ともみと名乗った小柄で華奢な店長も、どちらも美しくて見惚れた。
店長は黒ぶちの眼鏡をかけているけれど、アパレルブランドで働きモデルのオーディションをすることが多い桃子にとって、眼鏡で隠れた美貌を見抜くことは慣れた作業なのだ。
店に入りカウンターに座るように促されると、まずはドリンクを注文した。頼んだのはベリーニ。酒が飲めるようになった20歳の誕生日に、名前の“桃”にちなんで、当時付き合っていた恋人が一緒に行った店で選んでくれた桃とスパークリングワインのカクテル。
それ以来、ベリーニは桃子のお気に入りになり、飲みに行くと必ずと言っていいほど頼むようになった。
「本来は白桃のピューレとスパークリングワインでお作りするものですが、今夜は良いシャンパンが開いているのでそちらを使わせていただこうかと。泡が細かいので、よりなめらかな口当たりをお楽しみいただけると思いますよ」
そう説明してくれた店長…ともみの言葉通り、桃の爽やかな甘みがなめらかに喉を流れていく。
― 翔は…元気かな。
葉山翔(はやましょう)。桃子が成人した誕生日にベリーニを選んでくれた人。大学の同級生として出会い、将来の夢と希望に溢れていた頃の恋人。
―もう何年も…どこでベリーニを飲んでも、翔を思い出すことなんてなくなっていたのに。
社会人になり1年経った頃に別れた彼の笑顔を久々に思い出したのはきっと、このベリーニが、なぜかひどく懐かしい味だからだろう。
純粋だった頃の自分を象徴する存在でもある翔。チリっと胸に刺さった痛みは、変わり果ててしまった今の自分への呆れか、それとも罪悪感か。
思わず過去に思いをはせていた桃子の前に、話に聞いていた秘密保持契約書が差し出された。数枚の書類を読み終えると、1,000万円という賠償金の額に一瞬たじろぎながらも桃子はサインをした。
書類の受け渡しが終わると、桃子さんとお呼びしてもよろしいでしょうか?と前置きしたともみが続けた。
「お話しされたいことがあれば、宜しければお話しください」
でも、ただ飲むだけでも大丈夫ですよという言葉に気遣いを感じて、桃子の気持ちが緩み、呼吸を整えながらゆっくりと、ポツリポツリと話し始める。
「私は、アパレルブランドでデザインの仕事をしています。いわゆるデザイナー…とはいっても肩書はアシスタントデザイナーなんですが。
上司が有名なデザイナーで、私の恋人で…ずっと一緒に仕事をしてきました。でもその彼が…私のデザインを自分のものとして発表してしまって…しかもずっと本命の彼女がいたみたいなんです。
2股というか騙されていたのに、私はそんなことには全く気づかずに、バカみたいに恋してバカみたいに浮かれていました。近い将来に、2人の名前で服を発表しようって言われてましたし、彼のことが大好きだったから、彼の役に立ちたい一心で自分のデザインを彼に渡し続けていたんです。
彼を信用していたから…全てを渡してしまって、証拠がなにもなくて。彼を問い詰めて会社にも訴えてみたんですけど、これ以上騒ぎ続けたら、この業界で働けなくなるよと…」
「つまり……桃子さんは、恋人だと思っていた人にデザインを盗まれた挙句、脅されている、ということですか?」
ともみの問いに、桃子は弱々しく頷いた。
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