僕に声をかけてきてくれたのは、美玖子さんだった。
中途採用の女性で、入社してくれたのは10年前。
年は39歳だけれど、それよりもずっと若く見える。ふわっと薫る甘くエレガントなローズの香水は、CHANELのCHANCEの香りだ。
「美玖子さん、楽しんでる?」
「はい、ありがとうございます」
透き通る凛とした声は、相変わらず魅力的だ。面接で初めて彼女に会った時に、特別な人だと感じたことを覚えている。
当時は主婦だったもののすでに離婚を決意していた美玖子さんは、「全力を注げる仕事に復帰したい」と、その美しい声で熱い気持ちを語ってくれたのだった。
― 「離婚するから名字もかわります」って言って、下の名前で呼ぶように自己紹介してくれたんだよな。
当時のことを振り返りながら、僕は彼女に向かって軽口を叩いた。
「どうしたの、今日は無礼講だよ。社長のご機嫌取りなんていいから、ほら、美味しいもの食べておいで」
よく気が回る美玖子さんのことだから、きっと会場に姿が見えない僕を心配して見にきてくれたのだろう。サバサバしていながらきめ細やかな性格は、社内でも人望を集めていると聞いている。
「ちょっとここで考え事してるだけだから、僕のことは心配しなくて大丈夫だからね」
けれど美玖子さんは、予想外の返事をしてくるのだった。
「いえ、心配だなんて。…あの…、ちょっとだけ、ここで後藤さんのそばにいてもいいですか?」
「え…?」
◆
2人でこっそり店の外へと抜け出すと、5月の夜風が僕たちの頬を撫でた。
「気持ちいい…」
美玖子さんの澄んだ声が、CHANCEの香りと共に僕に届く。
もしかしたら、会場の中では言えない折り入っての相談があるのだろうか?
そう思って美玖子さんを外へと連れ出したものの、美玖子さんは少し頬を染めながら、じっと黙り込んでいるのだった。
「どうしたの?何か、僕に言いたいことがあったんじゃない?」
僕はなるべく威圧的にならないように気遣いながら、美玖子さんに声をかける。
日頃から従業員とは距離をなるべく近く、話しやすいように心がけているけれど、そうは言っても僕は雇用主だ。きっと、言い淀んでしまうこともあるだろう。
でも、従業員の声は家族の声だ。どんな苦言でも、相談でもしてほしい。
― 僕みたいなオジサンに言いたいことなんだから、よほど深刻なことなのか…?
そう覚悟して、どんな言葉でも受け止める覚悟を固める。
けれど、美玖子さんがようやく発した言葉は、僕にとってはどんな相談よりも驚きに満ちたものだった。
「あの…後藤さんって…いつも周りの助けになってばかりで。誰かに支えてもらいたいとかは、思わないんでしょうか?」
「え…?」
何を聞かれているのか分からず、僕は思わずきょとんとしてしまう。そんな僕の反応を前に、美玖子さんは慌てて言葉を続けた。
「あ、あの!本当にすみません。こんなの、失礼ですよね。でもあの…後藤さんのことを支えてあげる方って、いらっしゃるんでしょうか。だって、奥様って…」
「ああ…知ってるのか」
そこまで聞いて、やっと彼女が僕に何を伝えたいのかを理解した。
潤んだ瞳。淡く染まった頬。不安げな表情。そして、妻のこと──。
まさか50歳をすぎた今も、こんな状況に身を置く時が来るなんて、一体誰が予想できるだろう。
時折、秘書のような役割もしてくれている美玖子さんだ。きっと、僕の妻のことを…僕の家族ことを、少なからず知っているのに違いなかった。
子育てに関与しなかった僕は、恥ずかしながら家庭にしっかりとした居場所があるとは言えない。
同い年の妻とは戦友ではあるけれど、夫婦関係が成り立っているかどうかは別のことだった。
僕の稼いできたお金を、妻が長期の旅行や高価な買い物に注ぎ込んでいることには、感謝の気持ちをもって目をつぶっている。
その旅行や買い物に、僕ではない誰かを伴っていることにも。
「はは、情けないな…」
バツの悪さを情けない笑みで誤魔化す僕に、美玖子さんは半泣きのような表情を浮かべた。
「すみません。でも私…私…ずっと後藤さんのこと」
だけど、それ以上の言葉を、美玖子さんの口から言わせるわけにはいかない。
僕はそっと美玖子さんの肩に手を置くと、なるべく威圧感を与えないよう精一杯心がけて、言った。
「心配してくれて、ありがとう。いつも感謝しています」
じっと美玖子さんを見つめる。美玖子さんも、僕をじっと見つめる。
こんなに長い間女性と見つめ合ったのは、一体いつぶりだろう?
正直僕の胸の中には、まだこんな気持ちになれることへの喜びが溢れていた。
それでもすんでのところで思いとどまれたのは──美玖子さんが、真田くんの憧れの女性だと知っているから。
人生は自分の行動の結果だということを理解している、52歳だからだった。
全てを言わずとも理解してくれた美玖子さんが、もう一度僕を見つめた。
「はい。私も、感謝しています。“社長”」
「これからでも、妻を振り向かせたいんだ。君と年の近い娘のこと、すべて任せてきてしまったからね」
「…そういうところが、素敵です。これからも社長のためにお仕事頑張りますね」
「ありがとう」
「じゃあ、先に戻ってますね」
「うん」
美玖子さんはそう言って、店内に戻っていく。颯爽とした歩き方は、面接に現れた時とまったく変わっていなかった。
CHANCEの香りだけが、僕の隣に残った。
彼女の気持ちに応えられなかった理由は、実はもうひとつだけあった。
― この香りが、妻と娘と同じじゃなかったら…もしかしたら危なかったかもな。
もう、52歳。
年下の美女からの想いを無下にするだなんて、惜しいことをしたと悔やむ日がくるのかもしれない。
だけど、これで十分なのだ。そんな想いを寄せてもらえたということは、少なくともジジイなりにかっこいい背中を見せることに成功する予兆があるのだろう。
「んん…俺もそろそろ戻るか。家族のところに」
大きく伸びをして、これから先のことを考える。
さて。16年目の会社では経営者である俺こそが率先して休みを取って、改めて妻を旅行にでも誘ってみようか?
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52歳の後藤に片想いする美玖子。そんな美玖子を見つめる、32歳の男がいた
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