2024.10.17
かわいく生きられない女たち Vol.3
「あのメールが大問題になってはるよ」
水瀬次長は、私が席に座ると切り出した。
穏やかな口調だが、彼の切れ長の目は「何ひとつ見逃さない」と言っている。彼は京都大学を主席で卒業しており、丸の内本部での経験も長い。年は40歳で、プレイヤー歴も私より上だ。
「どのメールですか?」
「支店にメールを送った際に、添付資料を間違えたんちゃうかな」
必死で記憶を巻き戻す。うちの部は殺人的な仕事量で知られている。過去に送った膨大なメールを思い返していると、彼は助け船を出した。
「『婚活男性スコアリングシート』。A社の案件にエクセル送ったやろ」
私は「間違えて送ってしまったと」いう事実を挽回するために、あのシートの正確さを主張することで巻き返そうとした。
「あ、あれは…論文や科学的根拠に基づいて『この条件なら結婚してもいい』という点数をつけた表です。正確だと思いますよ」
しかし、それはうまくいかなかったようだ。やれやれといったように彼は首を振った。
「そういうことやないんやけど。でも、そんなにそのシートの話をしたいんやったら言うとくわ。恋は理屈やない。恋をしても賢うおるなんて、不可能や。頭で分析しすぎ」
彼の左手には結婚指輪が光っている。確かお子さんも3人いたはずだ。奥さんは専業主婦だと聞いている。典型的なエリート銀行員だ。きっと若いときからモテたはずだ。今だって、社内では人気がある上司だ。
一方の私は、中学から女子校で、東大に入ってやっと彼氏ができたけど……それだけ。他に経験はない。
初めての彼氏は男子弓道部の部長。私が女子部の部長だったから、なんとなく付き合うことになっただけだ。しかし、社会人になってから別れてしまった。あれから5年、今まで彼氏はいない。
「全国模試は70でも、恋愛偏差値は30ってことやね」
次長は冗談っぽく言うが、痛いところをついてくる。
― 今まで頭を使って、受験も仕事もうまくいってきた。だからそれ以外の方法がわからないだけなんだよね…。
「じゃあ、どうしたら恋愛偏差値上げられるんですか?」
思わず私は聞き返しそうになり、言葉を飲み込む。尋ねる相手を間違いすぎている。
何も言い返せない私に、彼が沈黙を破る。
「僕としても、有賀さんの評判を落としたくない。せっかく一カ店目で表彰されて、この選ばれし部署に来たんやないの。昇格もしたのに、他の同期のためにあんなもの作って、間違えて送るなんて君らしくないよ」
「他の同期のために作った?」
「え、誰かのために作ってあげたんちゃうの?」
「あれは自分のために作りました」
水瀬次長は驚いて目を大きく見開く。でも、次に彼から出た言葉は、もっと私を驚かせた。
「有賀さんって『恋愛に興味はない!私はキャリアと心中する!』ってタイプやなかったんか?」
そういう偏見には慣れている。東大の院卒ってだけで、恋愛に興味がないキャリア志向だと思われる。
「そんなことないですよ。東大の院卒ってだけで、そういうふうに思われるのも心外で…。恋愛に興味がないわけではありません」
「あ、そう。なら知り合い紹介しよか?いい子がいてはるよ」
何この展開?次長に男を紹介してもらうとかありえない。
「えっと…結構です」
「なんで?」
間髪入れずに彼が尋ねる。
水瀬次長は京都にある老舗の呉服屋さんの出身だ。地元が大好きで、家族は京都に残り、彼も毎週末のように新幹線で帰っている。
そんな彼が紹介する人は、きっと京都の老舗和菓子屋とかの息子で、見た目は清楚なあざと系女子が好みに違いない。私みたいに可愛らしくないバリキャリは嫌われるに決まっている。
断りの言葉を考えていると、彼は「まあ会ってやって」と言い、こう続けた。
「確か、あの子も有賀さんと同じ…」
彼が言い終わる前に、ノックの音がして、アシスタントの女性が入ってきた。
「水瀬次長、そろそろ出発のお時間です」と彼女は告げた。
「あ、出張やったね。じゃ、紹介の件は考えておいて。あのシートの件は僕がなんとかしておくから」
その前に言いかけたことが何なのか、聞く前に彼は去ってしまった。
◆
「はぁ…」
仕事を終えて、女子寮の大浴場に入った。鏡にうつる私は、まるで最悪の一日を生きのびてきたように疲れて見える。
湯船に浸かると、同期が入ってきた。私は彼女に『婚活男性スコアリングシート』を間違えて添付して送ってしまった話をした。失敗談は良い。学歴の壁をやすやすと越えさせてくれる。
彼女は「あーあのシートね…」と、もくもくと上がる湯気を見ながら言った。
「前に見せてくれたけど、めちゃくちゃ採点基準が厳しそうだったな。クリアした人いるの?」
「最近、隣の部署に来た人でひとりだけいたわ。でも口を大きく開けて笑っていたのを見て…これは、うしろめたい気持ちにさせられることを嫌う、外向型タイプの典型例なの」
「で、実際にデートした人は?」
「ううん、まだ誰とも」
沈黙。先に口を開いたのは、彼女だった。
「料理本のたとえ知ってる?」
「知らないわ。何それ」
「一度も食事を作ったことがない人が、料理本を書いちゃダメってこと。恋愛も同じで、恋愛経験の少ない美月が、評価するシートを作るのはちょっと違うよ。頭で考える前に、まずはいろんな人に会ってみたら?採点はそれからでいいのよ」
そこで、今朝の水瀬次長の話を思い出した。
「上司がいい人紹介してくれるって言ってるんだけど…」
「いいじゃん!」
「でも、上司の紹介って断りづらいし。どんな人か全くわからないし」
「美月に一番足りないのは『とりあえず会ってみる』の項目だと思うよ」
彼女は言い終わり、立ち上がった。
私は彼女の下半身に目が釘付けになる。VIO脱毛を始めたと聞いてはいたが、ここまできれいになるとは驚いた。どうやら最近、婚活をがんばっているらしい。
彼女のVIOを見て急に焦ってきた。
― 私もそろそろ、前に進まなきゃ。とりあえず会うだけでもいいのかもしれない。
じりじりする私をよそに、彼女は「いつか美月とダブルデートできたらいいなぁ」と無邪気につぶやいている。
大浴場から部屋に戻り、次長に「紹介の件を前向きに検討したい」とLINEを送った。
すると15分後に返事がきた。
『今週末の土曜18時、新丸ビルの「リゴレット」』
― え、話早くない?相手の事前情報は…?ていうか、まだ会うなんて一言も言ってないし!
『会う前に相手のプロフィールが知りたいです』
一応上司なので丁寧に返信する。しかし、『それ教えるとあれこれ考えるやろ。事前情報なしってのもたまにはいいやろ』と返された。
不安でたまらない。キャンセルしようかとも思った。
でも『リゴレット』は私も大好きなお店だ。
かわいらしいタパス、おいしいお酒、キラキラした夜景、気さくな店員たち。
それらは頑張って勉強して桜蔭から大学に行き、銀行に入った先に待っていた“ごほうび”のようなものだ。
私は特段かわいくもなければ、スポーツも得意ではないし、愛想も良くない。小さい頃から「頭を使わなきゃ、この世界は生き延びていけない」と思っていた。
いつも「頑張る!」と自分に言い聞かせてきた。男性はもちろん誰かに甘えることなく、自分で自分を支えてきた。それが私の生き方だった。
最近、ふとした瞬間に「よく頑張ったね」と、昔の自分に声をかけたくなることがある。
― 私だって、たまには誰かに甘えたい。私の人生に恋愛が加われば、もう何も言うことはないのかも。
男の人と素敵なレストランにプライベートでいくなんて、何年ぶりかな…。楽しみと不安が入り交じって、どう気持ちを整理していいのかわからない。
でも、これも自分の恋愛偏差値を上げるための第一歩なんだ、と自分に言い聞かせた。
そのままVIO脱毛について調べ始めた。土曜までに間に合わせようとしたが、それは明らかに難しそうだった。
自嘲気味に笑いながら、やっぱり準備は完璧にはいかないものね、と思った。
土曜日の18時に店の前に着くと、思いもかけない男性が立っていた。
「え、有賀!?」
「うそ、なんでいるの…」
▶前回:出会いを求めて参加した結婚式の2次会。28歳女が、ハイスペ男を前に大苦戦したワケ
▶1話目はこちら:メガバンク勤務、28歳ワセジョの婚活が難航するワケ
▶Next:10月24日 木曜更新予定
次回は「理論値では最悪。なのに惹かれる!」……東大女子はつらいよ
次長の美月に対しての「〇〇してはるよ」というのも気になった。敬語なんですが…むりやり京都弁を入れた感じ。
最後のVIO脱毛だって、初対面の人に会うからといって脱毛を検討する箇所ではない。手足ならともかく。
当たり前じゃない、レーザーの永久脱毛なら6-10回通わないとなんじゃ? しょうもな。ボーボーなら見える所だけとりあえず自分でカミソリ処理でもしとけば?
同僚や後輩がこんな凡ミスしたら小馬鹿にするんでしょう、東大様は。 しかし高学歴女性なんて珍しくも何ともない時代に、何故ここまでおかしな主人公に設定するんだか。
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