2024.10.23
マティーニのほかにも Vol.13平日ど真ん中の水曜日。時刻はまだ17時半。いつも通りの感じであれば、由依以外の客足は見込めないタイミングだ。しばらく忙しくなることはないだろう。
そう考えた諒は、「よし」とひとり呟いて気を引き締めると、おもむろに平皿を取り出し、そこに塩を乗せた。
同じく取り出したカクテルグラスのフチにカットしたライムをぐるりと塗り、皿に出した塩に付けて、スノースタイルのグラスを2つ完成させる。
そして、シェイカーにテキーラとホワイトキュラソーを注ぎ、ライムジュースを搾り入れ、先ほどがむしゃらに作ったシェイク用の氷を入れた。
8席ほどのこぢんまりのした店内に、小気味よいシェイクの音が響き渡る。
じっと目を瞑って静かにシェイカーを振る諒の姿は、誰かが見れば、祈りを捧げているようにも見えたかもしれない。
ゆっくりとシェイクをやめ、スノースタイルに仕立てたグラスに中身を注ぎ入れる。
そのグラスを諒は、誰もいないカウンターの端の席に差し出して言った。
「…おまたせ、瑶子。マルガリータだよ」
儚げに白いマルガリータは、うっすらと淡く発光して見え、美しい幽霊のようでもある。
2つ並んだマルガリータを無言のままじっと見つめていると、入り口のドアベルがカラン、と小さな音を立て、来客を告げた。
― あれ、由依ちゃんか?
すっかり油断していた諒は弾かれたように顔を上げたが、そこにいたのは由依ではなく、落ち着いた雰囲気の小柄で若い男性だった。
「すみません。1人なんですけど…いいですか?」
「もちろんです。どうぞ、お好きな席へ」
諒はさっと自分の分のマルガリータを手元に引っ込めると、接客用の微笑みを浮かべた。
“瑶子”の分のマルガリータは下げるタイミングを逃し、そのままカウンターの端に残したままにした。
突然やってきた男性客は、若く見えるがずいぶんとバーに慣れているようだった。
さまざまなカクテルを、小気味良いペースで満遍なく注文していく。じっとカクテル作りの手元を見つめる男性客を前に、必然的に諒は彼とぽつりぽつりと会話を交わすことになった。
「お客さん…」
「あ、佐藤と申します」
「佐藤さん、ですね。小平と申します。今日はお仕事はお休みですか?」
「はい。祝日働いた分、今日は休みで。ずっと来たかったこのバーに、やっと来られて嬉しいです」
「こんなところ、近所の学生もたくさん来るしがない小さなバーですよ」
「いやいや、全部すごく美味しいです。失礼ですけど小平さん、10数年前はあのバーでチーフバーテンダーされてましたよね?あの、日比谷の五ツ星ホテルの…」
「ハハ、やだな。昔の話ですよ」
「いろんなバーのバーテンダーさんから、小平さんの話聞くんです。ずっと憧れの存在で…ようやくここで独立されてることを知って、休みをとって来たんです」
「困ったな…」
佐藤の質問の仕方は、不躾なようでいながら分を弁えているような、不思議な距離感があった。
― こういう品のいいお客様、前の職場ではよくいらっしゃったな…。
静かでありながら深い会話に、意図せずとも、五ツ星ホテルで働いていた16年ほど前のことがつい思い出される。
それはつまり諒にとっては、“瑶子”に想いを巡らせることとイコールだった。
「諒…」
優しく、“諒”という漢字の持つ意味までしっかりと込めるような発音で、自分を呼ぶ瑶子の声。
まだ耳に残るあの声が、瑶子の記憶を開けそうになった、その時だった。
「リョウさん!」
ガラン!という騒がしいドアベルの音と共に、「リョウ」という音だけの発音で、名前が呼ばれる。
「リョウさん、ごめん!今夜はこの通り、友達とハロウィンパーティーするから来られないの!寂しいと思うけど我慢して…って…。
うわ、ごめんなさい!お客さんいると思わなくてっ」
今度こそ、由依だった。「じゃまたね!」と、嵐のように現れては去っていった由依は、幽霊とも花嫁衣装ともつかないコスチュームに身を包んでいたようだ。
自分の名前を呼ぶ、まったく違う発音の声。さらにはバーに似つかわしくない騒がしい雰囲気にすっかり現実に引き戻された諒は、やれやれと肩をすくめながら佐藤に謝罪する。
「彼女、まだ若くて学生なんですよ。ハロウィンなんて僕の頃はこんなに賑わってなかったですけどね。あの仮装、ゴーストかな…騒がしくてすみません。
…うちはいつだって、幽霊は大歓迎なんですけどね」
何よりも泣けた。大事な人をある日突然失うのは本当に辛い事だよねぇ。15年も引きずってきた気持ちが少し楽になり、前に進めそうで良かったよ。この連載本当好き。
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