2024.07.03
マティーニのほかにも Vol.6ヒデの労いの言葉が、刃物のようにリサの心を引き裂く。
それもそのはずだ。この日リサが向かったのはダンスのレッスンではなく、全く別の場所だったのだから。
アメリカの、しかもニューヨークで、「女優になりたい」と考える女の子は、一体何人いるのだろう?
何千、いや。何万人かもしれない。だけど、夢を叶えられるのはわずかひと握り。ブロードウェイで女優として成功を収めるというのは、多くの女優志望者たちにとって文字通り“夢のまた夢”だ。
そんななかで…。
有力な舞台プロデューサーからの求愛を断れる女優の卵なんて、果たして存在するだろうか?
ましてやリサは、半分日本人なのだ。どれだけ努力をしても、どれだけ強がってみせても、エキゾチックなルックスとアジアにルーツを持つリサが成功するのは奇跡と言っていい。
― 私、次の舞台こそ、どんなことをしてでも絶対受かってみせるって決めてるんだから…。
ついこの前のヒデとのデートで、そう宣言した自分自身の声が、何度も頭の中に響き渡った。
だからリサは、黒い誘惑の形をした求愛を受け止め───。
たった今、プロデューサーと結ばれてきたのだった。
― やめて、ヒデ。そんな目で見ないで。私はもう、すっかり汚れてしまった。
見た目には全く同じに見えても、もう自分はヒデの知っているリサではない。
そう思うと、とてもこれまで通りにシャーリーテンプルを注文する気にはなれなかった。
ノンアルコールのカクテルで練習に励む自分自身すらも、手ひどく裏切ったのだから。
ヒデの「一緒に日本に帰ろう」というプロポーズに応える言葉を持たなかったリサは、結局、無言のまま大粒の涙を流して、いつものバーを後にした。
それ以来、シャーリーテンプルはもちろん、バーからは足が遠のき気味だ。
◆
たった一杯のダーティーシャーリーで、思いのほか酔いが回ったらしい。
― あ〜。私ってほんと、汚い女…。
12年前の傷はまるで昨日のことのように痛みを伴い、リサの目からはまた、あの時と同じ大きな涙がこぼれそうになる。
けれど、その時。
ばん!と大きな衝撃を肩に感じてリサは飛び上がった。
「oh my…!」
「やーっと見つけた、リサ。飲めないくせになにこんなところ来てんの」
バクバクと飛び跳ねる心臓を抑えながら振り返ると、そこに立っていたのはテオだ。
少し長い栗色の髪に、がっしりとした長身。リサと同じくスペインと日本のハーフで、アメリカで芽を出しはじめている俳優だ。
端役ではあるものの、この度の舞台の共演者であり…何よりもリサにとっては、10歳も年下の恋人でもあった。
「ちょっと、びっくりさせないでよテオ」
「こっちのセリフだよ。メッセージで送られてきた部屋に行ってもいないし。
え?てか何、リサ酒飲んでんの?初めて見たけど」
「たまには飲むよ。だって…私ってサイテーなんだもん」
若干呂律の回らない状態でそうぼやくと、テオは何かを察したようにしばらく天を見上げ、呆れたように首元に手を当てる。
そして、心底つまらなそうにボソリと言うのだった。
「あ〜、わかった。まーだあのこと引きずってんの?ほんっとリサってくだらねー…」
「あのさぁ、すげー昔にプロデューサーと寝たこと?俺、ずっと言ってんじゃん。そういう貪欲なところ、むしろすげーカッコイイって」
「でも…」
「てか、そのプロデューサーの舞台はすぐに降りて、結局は自分で小さいシアターからのしあがったじゃん。今成功してるのは、リサの実力だろ」
「だけど…」
じっと黙り込むリサの隣に、テオはドスンと腰を下ろす。かと思うと、鬱陶しそうにくしゃくしゃと髪をかき乱しながら吐き捨てた。
「あーもう、いいんだよ!全部知ってるうえで、そういうリサが俺は好きなんだから。
とにかく、飲めない酒なんて飲むなよダサいな…。リサにはさ、これがお似合いだわ」
そう言ってテオが手早くバーテンダーに注文したのは…なんと、シャーリーテンプルだった。
ウォッカの入っていない、ノンアルコールのシャーリーテンプル。
リサにとっての、無垢と努力の象徴。
「…これ、シャーリーテンプル?ノンアルコールの?」
「そうだよ」
「これが、私に似合う?」
「そうだよ。飲めないんだから」
「こんなに可愛くて綺麗なカクテルが?」
「なにが?リサは綺麗だろ。だし、ほら。今日のパンツもピンクだし」
若干のイラつきさえ滲ませながら、テオは怪訝な顔でリサを見つめる。
その途端にリサの胸からは不思議と、12年前の痛みが跡形もなくスッと消えていくのだった。
「服がピンクだからって、そんな単純な…。テオ、You are sooo funny」
10歳も年下の恋人というのは、こうまでも感覚が違うものなのだろうか。
バカバカしいほどの若者ぶりに清々しさすら感じたリサは、フライト用に着ていたピンク色のスウェットをさすりながらしばらく笑い転げる。
― ああ、私…。テオの前でなら、汚れたことなんてないみたいに笑っていられる。
笑いすぎて乱れた呼吸を整えたリサは、もうヒデのことなど考えなかった。
過去に犯した過ちのことも考えず、テオの言葉のように頭を空っぽにして、差し出されたシャーリーテンプルにただ口をつける。
そして、1滴の苦味もない甘さに浸りながら、ハッキリと言葉で伝えた。
「テオ、I love you。I love you, more than anything!」
▶前回:損保勤務の28歳独身男がNY駐在に。現地でハーフの彼女ができて、夢中になった結果…
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:7月17日 水曜更新予定
10歳年上の舞台女優と交際中のテオ。リサよりも自分のアイデンティティーに悩むテオは…
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