マティーニのほかにも Vol.4

一橋卒の28歳エリート証券マン。仕事帰りに日本橋のバーに行ったら、意外な出会いがあり…

「んじゃ、乾杯!」

生ビールとレモンサワー…ではなく、ジンフィズと乾杯したあとは、しばらく橘の取るにたらない話が続いた。

橘が、何よりも家族を大切にしていること。

今こそつまらない家庭人だが、かつては激しい恋をした経験もあること。

さらには秀司に恋人の有無を聞いてくるという、今のコンプラ的にはギリギリアウトかもしれない会話まで発展する始末だ。

早く仕事に戻りたい。そう思って急ぎ頼んだ秀司の2杯目のビールも、あっという間に残りわずかになっていた。

しかし…。

「あっ。彼女がいるのかなんて、こんなこと今は聞いちゃいけないんだっけ?」

と、のんきに尋ねられた秀司は、ビールのほろ酔いも手伝ってか、ふと思いがけず久しぶりに瑠美の顔を思い浮かべる。

そして、いつのまにか橘に気を許し、ポツリポツリと瑠美のことを話し始めるのだった。

「いや、同棲してる彼女がいますよ。俺よりちょっと年上なんですけど、根っから明るい女性で…いずれは結婚したいとは思ってるんですけど…」

しばらく話した時だった。秀司はふと、橘の表情が変化していることに気づく。

ヘラヘラとした笑顔は、どこか優しさを帯びて…例えるならまるで、父親のような慈愛に満ちた表情に変化していたのだ。


「うん、新田。やっと気分切り替えられたみたいだな」

「え?」

「いや、なんでもない。スマン、ちょっとトイレ」

表情が変わったと思うやいなや、橘はそう言って席をはずす。

突然カウンターでひとりになった秀司は、空になりかけたビールグラスを手の中で揺らしながら、橘の今の表情について考えるのだった。

― なんだ?なんか橘さん、いつもの感じと違うような…。

その時だった。

カウンターの中からバーテンダーが、静かな微笑みを浮かべながら秀司に声をかける。

「新田さん…ですよね?」

「え?はい、新田です」

「お会いできて光栄です。いつも橘さんが話されてるんですよ。伸びそうな部下が来てくれた…って」

「俺が…ですか?いや、俺なんて全然…」

どうやら橘は、ここに通う度に自分のことについて話していたらしい。

思いがけない言葉に、秀司はじっと黙り込む。照れくささはもちろん、心の中で橘を見下していたことについて、罪悪感を抱いた。

そんな秀司に構わず、バーテンダーは話を続ける。

「橘さんって、きっと会社ではつかみどころがない方ですよね。でも…橘さんがいつも必ずジンフィズを頼む理由って、ご存じですか?」

「理由?」

「はい。橘さんがジンフィズを頼む理由は、レモンサワーに似てるからなんかじゃありません。

初心を忘れない丁寧な仕事をするために、お飲みになってるんですよ」


ジンフィズは、一見シンプルに見えて、最も作るのが難しいカクテルなのだという。

ステア。ビルド。シェイク。バーテンダーの持つ技能のすべてが必要とされ、材料もシンプルなため誤魔化しが利かない。

常に初心を忘れずに、飲む人のことを想いながら精進しなければ、美味しいジンフィズは作れない──。バーテンダーはそう語った。

「橘さん曰く、お仕事もジンフィズも同じなんだとか…すみません。ちょっと話しすぎましたかね」

「へえ、橘さんが…」

思いがけない話を聞いて半ば放心していると、のそのそとした足取りで橘がお手洗いから戻ってくる。

橘がずいぶん長い時間席を立っていたように感じたが、席に戻った彼の言葉で、秀司はすべてを理解した。

「おーし。トイレついでにな、今電話でファイナンス部とIB企画部に話通しておいたぞ。戻ったらすぐメール入れとけ」

「…え?」

「新田の作ってた資料な、後ろからちょっと見ただけだけど、煮詰まってたのそこだろ。あと、進め方もちょっとよろしくないな。あの場合は…」

驚くべきことに、今秀司が取り掛かっている案件の難点に対して、次から次へと的を射た助言をしてくれる。そのあまりの的確さに秀司は、感動と、橘に対する恥ずかしさを感じるのだった。

「橘さん、あの…今日俺を飲みに誘ってくれたのって…」

「ん?俺が飲みたかっただけだけど?」

「いやいや、そんなわけ…」

「まあ、新田に彼女がいるかどうかは知りたかったな!こんな激務、大切な人のためって思えなきゃ、やってられないだろ〜」

そう言ってヘラヘラと笑う橘の姿から受ける印象は、さっきまでとはまるで違っている。

― 橘さんって…。

よく考えれば、こんな生き馬の目を抜く業界で、人当たりの良さだけで出世できるわけはない。

残業せずに家族サービスに時間を割くことがどれだけ難しいか、想像もつかない。

いつのまにかすっかり姿勢を正した秀司に、橘はまたしても柔らかい笑顔を向ける。

けれど秀司は、すっかりクマの引いた顔を、橘に───。

いや、心から尊敬する上司に向けながら言うのだった。

「いえ、あと一杯だけお付き合いさせてください。

マスター…僕にも、ジンフィズをお願いします」


▶前回:港区の1LDKで彼氏と同棲して1年半。30歳女が深夜1時に帰宅すると、男が吐き捨てた一言とは

▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト

▶Next:6月19日 水曜更新予定
実はできる上司だった橘。彼が胸に秘めた、大恋愛の思い出とは

いつも『マティーニのほかにも』をご愛読いただいている皆さまへ

諸事情により『マティーニのほかにも』は今後隔週連載となります。次回は6/19(水)公開となります。引き続きどうぞ『マティーニのほかにも』をよろしくお願いいたします。

東カレWEB編集部

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この記事へのコメント

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No Name
にーったくん お疲れ〜
え、もしや女?と思ったら上司だった!めちゃくちゃ素敵な上司。
この連載好きなのに、次から隔週になってしまうのは残念。 小説がどんどん減っていくのはさみしい限り。
2024/06/05 06:0853
No Name
人あたりの良さだけで出世できるわけない。
本当そう。家族のために時間を使いたいから残業にならないよう人一倍頑張る、そしてそんな様子は微塵も見せない。素晴らしいね。呑気で冴えない上司から心から尊敬する上司へと、秀司の気持ちを上手く描いたなぁと。
2024/06/05 06:0248
No Name
港区とは関係ない男性同士の話もたまにはいいね。上司や先輩が飲みに誘っただけで即ハラスメント認定する人もいる昨今、上司とのお酒の場を大切にしてる環境なんて♡ 秀司にとっては大きな収穫だったと思うし。橘さんの優しさに泣ける。
2024/06/05 05:5139
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