マティーニのほかにも Vol.4

一橋卒の28歳エリート証券マン。仕事帰りに日本橋のバーに行ったら、意外な出会いがあり…

目の下にクマを浮かべながら、秀司がゆっくり振り返ると…そこに立っていたのは、今回の異動で秀司の直属の上司になった、橘だ。

シワひとつないブルックス・ブラザーズのスーツに、アラフィフとは思えない若々しい笑顔。

家族からのプレゼントだろうか?動物柄のフェラガモのネクタイが妙にのんきでハズレているところが、実にこの男らしく目に映る。

「あ…橘さん、お疲れさまです。何か?」

「いや、別に用はないんだけどね。新田、なーんかすんごい顔してるからさ」

「すいません」

「いやいや、謝ることは何〜にもないでしょ」

ニコニコと気の抜けた笑顔の橘を前に、秀司は頭の上に疑問符を浮かべる。

― え…なに?忙しいんだから、用事があるなら早く言ってくれよ…。

けれど、そんな秀司の心の中など、橘は全く気づいていないのだろう。次に橘の口から出たのは、今の秀司が一番言ってほしくない言葉なのだった。

「な、新田。久々にちょっと飲みに行くか!」

― ええ…マジでかぁ〜…!


― 仕事が忙しいので、と断われたらいいのに…。

しかし、秀司の勤めるこの日系証券会社では、令和の今も上司からの飲みの誘いは絶対だ。いまどき飲みニュケーションなんて流行らない。それはわかっていても、誰しもが上司とのお酒の場を大切にしている。

付き合いが悪いからといって冷遇を受けるわけではないが、仕事だって、人と人とのコミュニケーションだ。付き合いがいい方が要所要所で得をするに決まっている。

そんなこともわからないような人間は、この業界にはあまり存在しないのだ。

けれど秀司は、今ばかりはどうしても、二つ返事で「行きます」とは言えなかった。

― いやいや橘さん、今じゃないでしょ…。俺の状況わかってますよね…。

という言葉をグッと堪えながら、秀司は張り付いたような笑顔を浮かべる。

それというのも秀司は、この上司が──橘が、どうしても好きになれないのだ。

生き馬の目を抜くような熾烈なこの業界で、いつでもヘラヘラと笑いながら人当たりの良さだけで出世してきた男。

残業もそこまでせずに、家族サービスにばかり時間を割いている冴えない男…。

それが、秀司から見た橘の姿だった。

「あはは、そっすね〜。今から飲み…ですかぁ」

そう言葉を濁すが、鈍感な橘は敬遠されていることにも気づかず、粘り強く声をかけ続ける。

「ほら、息抜きも大事だって。2、3杯だけでもサクッと行こうぜ!」

これ以上ダラダラと濁しても、余計に時間を無駄にするだけ。そう諦めた秀司はついに笑顔を引き攣らせながら、

「あー、じゃあ2杯だけ!お付き合いさせてください!」

と答えざるを得ないのだった。


鼻歌交じりの橘に連れていかれたのは、大手町のオフィスからほど近い日本橋の路地裏に位置するバーだった。

クラシックな佇まいで、カウンターのみのこぢんまりとした店。どうやら橘が長年、常連として通っているバーらしい。

「何にいたしましょう?」

口髭をたくわえた初老のバーテンダーに問いかけられた秀司は、少しでもこの場をサクッと終わらせるため、手っ取り早くビールを注文する。

けれど、その隣で電子タバコをふかす橘は、飄々とした態度でこう言うのだった。

「ジンフィズちょうだい、ジンフィズ!」

「ジンフィズ?」

秀司が思わずそう漏らしたのは、こんな風に思ったからだ。

― これはもしかしたら、時間かかるパターンか…?

ジンフィズは、ジンとレモンジュース、シロップをシェイクして、ソーダで割ったカクテルだ。

どこのバーにでもある定番の一杯で、氷の入ったロングカクテルであるため、長い時間をかけて味わうことができる。そう、できてしまうのだ。

けれどいくらなんでも、長丁場になるかもしれないことを嘆くなんて失礼にも程がある、と感じた秀司は慌てて付け加える。

「橘さん、ジンフィズお好きなんですか?」

本音を悟られまいとする秀司に、橘はカラカラと笑いながら答えた。

「いや、本当は居酒屋でレモンサワーの気分だったんだけどさ。バーじゃレモンサワーは出せないから、ジンフィズってわけよ」

「はあ、確かに、レモン味の炭酸ですもんね…」

この記事へのコメント

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No Name
にーったくん お疲れ〜
え、もしや女?と思ったら上司だった!めちゃくちゃ素敵な上司。
この連載好きなのに、次から隔週になってしまうのは残念。 小説がどんどん減っていくのはさみしい限り。
2024/06/05 06:0853
No Name
人あたりの良さだけで出世できるわけない。
本当そう。家族のために時間を使いたいから残業にならないよう人一倍頑張る、そしてそんな様子は微塵も見せない。素晴らしいね。呑気で冴えない上司から心から尊敬する上司へと、秀司の気持ちを上手く描いたなぁと。
2024/06/05 06:0248
No Name
港区とは関係ない男性同士の話もたまにはいいね。上司や先輩が飲みに誘っただけで即ハラスメント認定する人もいる昨今、上司とのお酒の場を大切にしてる環境なんて♡ 秀司にとっては大きな収穫だったと思うし。橘さんの優しさに泣ける。
2024/06/05 05:5139
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