報われない男 Vol.3

朝6時に目が覚めると、自分の家ではないことに慌てた34歳女性。物音がする方向に行くと…

「ある事柄に複数人が関わった場合、誰かひとりの人の意見だけで真実は語れない、ということをこの作品は伝えたかったんじゃないかな、って。

例えば、自分なりの真実を話しているつもりでも、無意識のうちに、自分に都合よく解釈するから真実が少し捻じ曲がる、とか…中には、保身のためにウソを言った人もいる。それがバラバラの意見になって…というか…先生、伝わります?」

「伝わりましたよ、ありがとう」

京子の言葉に、大輝は嬉しそうに、その笑顔を加速させた。きゃぁ♡と小さな声を上げたのは、いつもわかりやすい好意を大輝に向けている女子学生で、京子に向けられた笑顔にさえ撃ち抜かれてしまったようだ。

「では、皆さんにはこれから、この7人の証言を今文庫本に書かれている順番と違う順番で読むと、どうなるのか。構成の変化が、読後の印象に与える影響を試してもらいます」

『藪の中』の構成を入れ換えたPDFを、学生全員に送付する。全員が読み始めたことを確認してから、京子は大きな桜の木が見える、窓際に歩いた。窓は開け放たれ、優しい風が入ってくる。学生たちを見守りながら、PCに集中している大輝に目を留める。


― やっぱり…彼とは、感覚が近いというか…物語へのアプローチ方法が近いのかもしれない。

1人の学生の意見に肩入れするつもりはないが、京子が『藪の中』から学んだことはまさに、先ほど大輝が言った要素、《真実は人の数だけある》という考え方で、常にその視点を忘れぬように脚本を書くときには強く意識しているのだ。

そして、実は大輝と自分の感覚が近いと思ったのはこれが初めてではなかった。

これまでの授業や、大輝の脚本を添削した時にも、そう感じたことが何度かあった。大輝が京子の作品のファン故に、その作品群から京子の感性を吸収することで、京子に近づいてきているのかもしれないが。

構成の変化により作品の印象は変わったか?をそれぞれが発表し、さらに、自分が際立たせたい登場人物の意見を強調するために構成を変えるなら、どういう順番にするか?というディスカッションが終わったところで、京子は授業を終えた。

部屋を出ようとする京子に、大輝が近づいてくる気配があったが、京子は気づかぬふりをして、大輝が女子学生に捕まっている間に教室を出た。

授業中は、努めて考えないようにしていたし、少し忘れられていたけれど、教室を出た瞬間、夫が2日も家に帰ってきていない、という事実が、疲労感と共に、蘇ってくる。

― まずは、カドくんを捕まえなきゃ。

未だ現実味を帯びない、夫の浮気。どう決着をつけるにしても、まずはきちんと話さないと、と自分を奮い立たせながら廊下を歩き、校舎の外に出た時だった。

「門倉先生」

声をかけられ、京子は立ち止まった。
若い女性。知らない顔で、自分が教えている学生ではないはず…と思っていると、その女性が言った。

「長坂美里です」

綺麗なお辞儀をした後、この後お時間いただけますか?と微笑んだ長坂美里の視線に絡めとられ、京子は言葉を出せず、動けなくなった。

この記事へのコメント

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不倫相手のくせに暴走して妻を苦しめる長坂はクズでしかないし、夫もそんな女の所に行って帰って来ないとか二人して最低。
2024/02/24 06:4135返信1件
No Name
前の話の門倉の態度から考えると長坂と一緒にいるとは考えづらいけど、もし長坂の話が本当なら門倉も相当なクズ…と腹立たしい。
2024/02/24 08:0621返信1件
No Name
長坂と門倉の言うことは矛盾していないけど、長坂の暴走のような気がするんだよね。大輝も長坂と同じ立場になってしまいそうだけど、それはいいのかな?
2024/02/24 06:5018
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