選ばなかった人生と、恵比寿のカスエラ。麻布競馬場による4号連続書き下ろしエッセイ vol.03

カスエラは、ちょっとした「選ばなかった人生」の象徴


「最近、選ばなかった人生のことを考えてしまうんです」と、僕は率直に切り出した。

僕の恋愛遍歴、それも直近の婚約破棄までもその経緯をよく知る北野先輩が「なるほどねぇ」と小さく呟いたところで、ちょうど本日のメインディッシュであるお米料理がテーブルに届いた。

ワタリガニやさまざまな貝が賑やかにひしめくその下には、普段見慣れているパエリアよりずっと水気のあるお米が控えている。

そう、今日はパエリアではなく、カスエラを頼んでいた。カタルーニャの郷土料理だそうで、リゾットのようにスープをやや残して炊き上げたものだ。


「よかったじゃない、せめてお米料理くらいはこれまで選ばなかったものを選べたんだから」と、北野先輩はまるで僕を励ますように言う。

そう、これは僕がどうしても、と選んだものだった。上田さんはパエリアのパリッとしたおこげの愛好家だったから、彼女とここを訪れるとき、僕はついにカスエラを頼むことができていなかった。

つまり、カスエラは僕にとって、ちょっとした「選ばなかった人生」の象徴だったのだ。


結果、カスエラはとっても美味しかった。

お米にまとわりつく濃厚なスープは、パエリアとして炊き切った時よりも魚介由来の出汁のストレートな旨みをより鮮明に感じることができたし、煮詰められたせいで生じたのであろうトロリとした食感は官能的ですらあった。

「美味しいですねぇ」と僕たちはしみじみと言い合い、すぐにボディのしっかりとした白ワインを追加注文した。

「さて、どうでしたか?恵比寿とは和解できそうですか?」と、お店の前で帰りのタクシーを待ちながら北野先輩は悪戯っぽく尋ねてくる。

「過去は過去ですから。昔あった関係をどうにか修復して延命するより、恵比寿とこれから、新しい関係をゼロから築けるように頑張ります」と僕は答えて、北野先輩が乗ったタクシーを見送った。

今年の夏で僕は32歳になった。若いかといわれればもう若くはないだろうが、過去は悔やんでも戻ってこないし、僕が選ぶことができるものは未来にしかない。

だとすれば、僕はグチグチと過去の死骸の山を眺めるより、東カレの恵比寿特集号でも読んだほうがいいに決まってる。そこでいい新店を見つけて、また北野先輩でも誘ったほうがいいに決まってる。

幸いなことに、人生は死ぬまで続くだろうし、もっと幸いなことに、恵比寿には死ぬまでずっと、僕の居場所があるだろう。


まずは、久々に訪ねたい店だけでもいくつかある。

選ばなかった人生の山のうち、例えば街にまつわるものや、お店にまつわるものはいつだって、改めて選び取ることができるのだから。



次回の書き下ろしエッセイの舞台は、「港区」!11/21発売の東京カレンダー本誌に掲載予定です。

■プロフィール
麻布競馬場 1991年生まれ。著書『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)が好評発売中。
X(旧Twitter)ID:@63cities

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