2023.05.08
運命の時計 Vol.1憂鬱の原因は、お教室にいる母親たちの服装や持ち物。
南は同じ母親たちの身につけているものが、気になって仕方がない。
「菜乃花ちゃんママ、こんにちは。お隣、いいかしら?」
「ええ、どうぞ」
声をかけてきたのは、菜乃花が仲良くなった由奈ちゃんのママ。
彼女は、エルメスのボリードから手帳を取り出すと、椅子の下に無造作にバッグを押しやった。ネイビーのジャケットの袖口からは、ピンクの文字盤のロレックスが覗いている。
お教室の日は、「お母様も上品できちんと感のある服装で」と先生から言われている。だが、服装だけではなく、バッグや時計などにも暗黙のルールがあるように南は思う。
バッグの色は黒。それもエルメスのケリーやボリード、バーキンを持っているママが多い。
いきなりお店に行ってもエルメスのバッグが買えないことくらい南だって知っている。なのに、お教室にいる十数名ほどの母親のうち、半数がエルメスを携えているのだ。
そして腕には、ロレックス、カルティエ、エルメスなどの華美ではないが品のある高級時計をつけている。
それらが、お受験ママが備えるべき品格を形作るとでもいうように。
― エルメスのバッグは無理でも、私も時計くらいはいい物が欲しいな…。
だから、南は最近、今まで無関心だった腕時計に興味を持つようになった。
◆
「今日はどうだった?」
夜、純司が、絵本の読み聞かせを終え菜乃花を寝かしつけたあと、リビングに戻ってきた。
「縄跳びはいきなりできるようにならないから、毎日練習してくださいって」
「ペーパーの出来はいいけど、菜乃花は運動が少し苦手だよな」
純司がパントリーから赤ワインを取り出し、南の向かいに腰を下ろす。
「これから日が長くなるから、仕事終わって帰ってきてから少し練習させるね。
それと、ちょっと相談があるんだけど…」
南は、夫に腕時計のことを話してみることにした。
「ちゃんとした腕時計が欲しいの。実は、お教室のママたち、みんな持ち物にお金をかけていて…」
南は、自分も服装には気をつけているつもりだが、結構な割合で母親たちがエルメスのバッグや高級時計を所有していることを、打ち明けた。
「もしかして、これ持ってなきゃ受からないのかも?なんて思っちゃうくらい」
南が自虐的に笑う。
「で、どこの時計が欲しいの?」
「えっと、できればロレックス…。お受験スーツの袖口からちらっと見えた時の存在感が違うような気がする」
南は、ダメ元で憧れのブランド名を口にした。すると、純司から予想外の答えが返ってきた。
「まあ、俺も若い頃買ったロレックスをいまだに使っているし、長く使えるから持っていてもいいかもな」
「えっ、いいの?」
表情を一変させた南を見て、純司はおかしそうに笑った。
「時計を買うことで、南が自信を持って受験に挑んでくれるなら。で、どんなモデルが欲しいの?」
大手IT企業に勤める純司は、かつて就職祝いに両親にねだって「オイスター パーペチュアル」をプレゼントしてもらった。
そして、社会人になってから数年後のボーナスで、ダイバーズウォッチの「サブマリーナー」を買ったのだそうだ。
「オイスター パーペチュアルは、レディースもあるみたい。でも、もうちょっと女性っぽい感じの方がいいのよね。
ダイヤモンドがたくさんついているのは高そうだから、ついてなくてもいいの。ほら、こんな感じの」
南がググって夫に見せたのは、レディ デイトジャストのモデルの1つ、「デイトジャスト オイスター スチール&ホワイトゴールド」だ。
どことなくクラシカルな雰囲気は、お受験の際にも悪目立ちせず上品。シンプルながらもひと目でロレックスとわかる特徴的なベゼルとブレスレット。
ピンクの文字盤が可愛らしいが、お受験を名目に買うのだから、シルバーかホワイトがいいと南は思っている。
「へえ、いいね。で、いくらくらいするの?」
「100万前後だと思う」
「えっ?そうなの?俺が両親にオイスターパーペチュアルを買ってもらった時は、確か50~60万くらいだったと思うけど。値上がりしてるのは、仕方がないよな。俺も探してみるよ」
ところが、週明け……。
南は、純司からとんでもない事実を聞くことになる。
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