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沙穂は、23歳で悠史と結婚した。
悠史は当時35歳、一回り離れた彼とは友人の主催する食事会で出会った。
当時からちょっと名を馳せた経営者だった悠史。沙穂には、大人の男性として魅力的に映ってしまったのだ。
半年もない交際期間を経て、スピード結婚。
都内の女子大を出て、大手企業の一般職として働き始めて1年後のことだった。
新婚当時は、幸せそのものだった。
漠然と憧れていた結婚という夢を、若くして最高な形で叶えることができたのだから。
結婚したら、仕事はやめること。お金を使うときは理由とともに申告すること。家事は完璧にこなすこと…。
悠史から課せられた結婚後の条件なんて、当時の沙穂にとっては1ミリも苦ではなかった。なんなら、それが夫婦になった証なのかと喜んだくらいだった。
それらがじわじわと沙穂の人生を蝕んでいると気づくまで、3年という時間を要した。
26歳になった頃、沙穂は抜け殻だった。
「子どもはいらない」
結婚して2年。悠史からそう言われたときの衝撃は、今でも忘れられない。
しかし、沙穂になすすべなんてない。
「でも…、私子どもが欲しい!」
「結婚前にそんなこと聞いてないぞ」
「だったら別れる…!」
「大したキャリアもない、自立もできないだろ」
つい、騙されたと思ってしまった。
子どもに関しては、結婚前に確認しなかった沙穂に非があるかもしれない。けれど、23歳の沙穂に、そんなことを事前に確認するなんて発想はなかった。結婚したら、普通に子作りするものだと信じていたのだ。
子どもを持つという夢を絶たれ、仕事をすることもお金を自由に使うことも許されず、家の中でただただ悠史のお世話をするだけの人生。
若くして結婚した代償は、あまりに大きかった。
毎日目まぐるしく動き続ける東京。そんな東京のど真ん中で、大きな窓から綺麗な街を見渡せるこの部屋で、沙穂に自由はない。
籠の中の鳥。
これといったキャリア志向があったわけでもない。ただただ幸せな結婚に憧れていただけの、平凡な女の子だったはずなのに…。
― 自分だって、もっと外の世界に出たい…。色んな世界を見てみたい。
自分にも野心に似た感情が備わっているということを、そんな状況になって初めて思い知った。
一度、両親に離婚したいと相談してみたけれど、そう裕福ではない沙穂の両親は大反対。
けれど、沙穂はどうしても自分の人生を諦めきれなかった。
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