2020.11.24
振り返れば、そこにいる Vol.1彼と初めて出会ったのは、社内研修でのことだった。
仁美が新卒から6年勤めているのは、誰もが一度は耳にしたことがある有名な大手保険会社の大阪支社。
そこで月に一回行われる社内研修には、毎回東京本社から担当者がやってくる。ここ数回は、本社で営業成績がトップだという佐伯が、研修の講師を担当しているのだ。
佐伯は30代半ばくらいだろうか。28歳の仁美にとって、彼の落ち着いた大人の色気は魅力的に思えた。
それにスラリとした体型と、こちらを見据える大きな瞳。物腰柔らかだが聡明な話し方。さらに飛び交う質問にもサッと答える、頭の回転の速さ。
そのどれもが素敵で、仁美は一瞬にして佐伯に心を奪われてしまったのだ。
そして彼が研修をするようになってからというもの、“面倒くさい”としか思えなかった時間が楽しみになった。
むしろ仁美たちの前に立つ佐伯を見つめ、口元が緩むのを必死に我慢しているぐらいだ。研修中に目が合うたび、胸の高鳴りは加速していくばかりである。
しかし仁美のひとめぼれで始まったこの恋。佐伯とは、なかなか研修以外で接点を持つことはできなかった。
そんなとき仁美の身に、ある“ラッキーな出来事”が起きたのだ。
「それでは、本日の研修はこれで終了です。お疲れさまでした」
それは、昨日の研修終わりでのこと。
佐伯が研修終了の合図を告げた瞬間、室内はざわつきはじめ、皆は順番に会議室を出て行く。
しかし仁美だけは席を立とうともせず、ネクタイをほんの少し緩めながらパワーポイントを終了する佐伯の姿を見つめていた。
スクリーンに一瞬だけ佐伯のデスクトップ画面が表示されたのを見て、仁美はプライベートを覗き見たような気持ちになり、なんだか照れくさくなる。
すると研修を終えた佐伯の前に、数人の女子が集まりだした。…何やら先ほどの講義について質問をしているようだ。
―これってもしかして、佐伯さんと距離を縮めるチャンスかも?
このチャンスを逃すまいと、仁美はその輪の方へ向かって行く。すると、彼女たちが踏み込んだ質問をしているのが聞こえてきた。
「…佐伯さんって、彼女とかいるんですか?」
「いや、彼女はいないけど?」
ほぼ初対面の社員からプライベートなことを聞かれているのに、佐伯は怒るでもはぐらかすでもなく、淡々と答えている。
その優しさにうっとりとしながらも、佐伯が発した「彼女はいない」という言葉を噛みしめた。
―あんなに素敵な人なのに、彼女いないんだ。
一方、佐伯を取り囲む女子たちも「本当ですか~?」と茶化しながらも嬉しそうにしている。…これはライバルが多そうだ。
仁美は彼女たちを少しでも出し抜くため、勇気を出してこんなことを言ってみた。
「…あの、佐伯さん!営業のことで詳しく聞きたいことがあって。もしよかったら今夜、飲みに行きませんか?」
「へえ。夏川さんって仕事熱心なんだね。いいよ、行こう」
佐伯が快諾してくれたこと以上に、名前を覚えてくれていたことに驚き、仁美の心臓は大きく跳ね上がる。
結局、その場にいた女子数名も一緒に食事に行くことになったが、そんなことが気にならないほど、仁美は浮かれ気分でいたのだった。
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