病める時も、ふくよかなる時も Vol.5

「今更奥さんとなんて、勘弁してよ」暴言に傷つく人妻を救った、若い男の行動とは

美月の目からは、とめどなく涙が溢れていた。

「すいません…」

そう言ったつもりだったが、美月の喉からしぼりだされたのは嗚咽だけだった。

抑えようと思ってもどうにもならない。自分でも、どうしてなのか分からない。

ただひたすら美月の心の中には、佐々木の言い放った「奥さんとなんて勘弁してよ」という言葉がぐるぐると渦巻いていた。


ただならぬ美月の様子に、甲斐がオフィスチェアを滑らせて美月の側に寄り添う。そして、背中を優しくさすりながら繰り返した。

「大丈夫、大丈夫…」

甲斐の低い声は、カサカサに乾いた心に染み込むようだ。

不思議と美月は、こうして誰かに優しくされることがひどく久しぶりのことのように感じていた。

…いつだって誠司は、美月を優しく愛してくれているはずなのに。

だんだんと落ち着いてきた美月は、甲斐に差し出されたティッシュで思い切り鼻をかむ。

そして、顔を上げるやいなや甲斐の顔を見て口を開いた。

「私、ダイエットしてるんです。主人に、太ってる私は女として見られないって言われたんです。だから私、絶対痩せなきゃいけないんです!」

なぜ突然、甲斐にこんなことを打ち明けたのだろう。だが今の美月は誰かに向かって宣言しなければ、弱った心を奮い立たせられそうになかった。

甲斐はそんな美月の言葉を笑うことなく、正面から受け止めてくれている。そして、何度も頷きながら言った。

「そっか…。それで、食事を抜いて、肉を絶って、フラフラになりながらも頑張ってボルダリングしてるんですね」

そう相槌を打ってくれる甲斐だったが、しばらく押し黙ったかと思うと、急に厳しい表情を美月に向けた。

「でもね、美月さん。はっきり言ってそんな計画じゃ痩せるわけないですよ。あまりにも無茶だし、やり方が間違ってる。絶対に続かない。続いたとしても、痩せる前に体を壊して終わりですね」

「!…」

甲斐の優しさに甘えて吐露した、ダイエットへの想い。そんな想いを正面からへし折られた気持ちになり、美月の目は再び潤み始めた。

だが甲斐は、美月の様子など意に介す様子もない。突然立ち上がりカーテンを開けたかと思うと、ジムへと出てくるように美月を促した。

トボトボとバックヤードから出てきた美月の前に広がるのは、一面にホールドが散りばめられた高い壁だ。

甲斐は美月の隣に立って目線を揃えると、天井付近を指差す。

「見て。あの、一番高い場所にある真っ青なゴールホールド。美月さんは、反対側の壁からあのゴールまでたどり着ける?床から4メートルジャンプしてあのゴールにタッチできる?」

「まさか、そんなこと。できるわけないじゃないですか」

そう答えた美月に向かって、甲斐は深く頷く。

「そう。できるわけない。目指すゴールに届きたければ、正しいルートを一歩一歩登らなきゃいけないんです。一気に結果を出そうなんて思っても、方法が間違っていたら絶対にうまくいかない。ダイエットだって同じですよ」

美月は思わず絶句する。この2週間必死で取り組んできたダイエットが、4メートルジャンプするほど無茶で間違っていた方法だったなんて…信じたくなかったのだ。

―でも、でも。じゃあ一体どうすれば…?

混乱の中で呆然と立ちすくむ美月の前に、甲斐が一歩近づいてくる。そして、お尻のポケットから小さな紙片を取り出すと、ニヤリと笑いながら差し出した。

「ご主人のために、本気で痩せたい?その気があるなら、正しいルートを案内しますよ」

美月は訝しみながらも、差し出された紙片をそっと受け取る。手にして見るとそれは、小さな真四角の形をした名刺だった。

そしてその名刺には、指し示されたゴールホールドのように真っ青な色で、こう記してあったのだ。

Be The Best Version of Yourself(最高の自分になろう)
パーソナルトレーナー
甲斐 陽介

と。


▶NEXT:10月28日 月曜更新予定
「本気で痩せたいなら、あるものを持ってきて」甲斐が指示した意外な物とは

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