泉の悩み
「今日からこちらの配属となりました、葉山泉です。どうぞよろしくお願いいたします」
先日、念願だったマネージャーに昇格した彼女は、十数人の部下を抱えることとなった。
これまではプレーヤーとして、目の前の仕事をこなしていれば成果を出すことができた。
しかし、マネージャー職となり、部下達一人ひとりの適正にあった仕事を割り振り、進捗を管理しながら全体で仕事を進めていくのは、これまでとは勝手が違い、難しかったのだ。
「横山さん、例のプロジェクトの進捗状況教えてくれる?」
「はい…。あの件は、先日の打ち合わせで相手側のGoがおりず、未だに進展がない状況で…」
泉はマネージャーとなってから、ハァっと無意識にため息をつく回数が増えていた。
ーそんなに悠長じゃダメじゃない…。この案件なら、数日で合意を取って進められるはずなのに…
そんな言葉が喉から出かかるのを必死に抑える。そしてゆっくりと丁寧に部下の話に耳を傾け、問題解決についての案を出して指示をした。
心の奥で、“自分だったら…”と思わずにはいられなかった。自分だったらこうしたのに…、自分だったらこうできるのに…と。
けれど、それでは彼らのためにならない。しかし、どう指導して行けばいいのか、未だ手探り状態だった。
さらに、彼女の悩みは仕事だけではなかった。
夫の孝介は役員をしているだけあって、泉以上に激務で、最近はすれ違いの毎日だったのだ。
そんな夫を支えようと家事は完璧にこなし、せめて週末だけでもと思い、日曜日は夫の体調を考えた献立をせっせと用意するのだが…。
「ねぇ、今日のご飯どうかな?今日はね、新鮮な秋刀魚を見つけたから、それをメインにね…」
「あぁ、うん。あ、ごめん、仕事の電話だわ」
夫婦になって7年。お互いに仕事で多忙なところを、日曜日の夕飯だけは一緒に食べるようにしていたが、肝心の夫はいつもこんな感じでまともに会話もできていない。
ーそういえば、私たち最近触れ合ってない…
気がつけば最近はスキンシップさえ取れておらず、夫婦の間に見えない溝ができてしまっているようにも感じている。
まわりからは、仕事もプライベートも充実しているように見られていることは、泉自身も知っている。だがその実は、そのどちらにも悩みを抱え、さらにそれは改善するどころか悪化の一途をたどっているのだ。
そんな事を回想していると、友人の声でふと我にかえる。
「じゃあ、私たちの素敵な40代の始まりに、もう一度乾杯しましょう」
カランと音を立てて重ねられたシャンパングラスの心地良い音とともに、泉はこのモヤモヤを吹き飛ばそうと、ぐいっと一気に飲み干した。
◆
「大変申し訳ございません!」
マネージャーになってから半年。
初めは、良いマネージャーになろうと必死になって試行錯誤した。
だが、部下たちに仕事を任せるというのは、想像以上に難しかった。
幸か不幸か、泉には彼らの仕事の粗がすぐに見えてしまうのだ。
初めこそ丁寧に対応していたが、段々と時間に追われるようになり、結局自分がやった方が早いため、先回りをしてやってしまうことが多くなっていた。
そのせいか、だんだんと部下たちの士気が下がり、部署全体に怠惰の色が見え始め、以前よりもミスが目立つようになっていた。
そしてとうとう、重要なクライアントを怒らせてしまったのだ。
気がつけば、何日もクライアントへの対応に追われ、ゆっくりと鏡を見ることがなかった。
何とかひと段落し、帰宅後に鏡の前に立った自分を見て、泉は愕然とした。
―何これ…肌がなんだか、すごく乾燥してくすんでる…。最近化粧のノリもイマイチだし、ハリも低下してる…。
久しぶりに見た自分があまりに老け込んだように感じ、呆然と立ちすくんでいた時、孝介が帰ってきて、開口一番にこう言った。
「なんか、部屋が散らかってない…?泉らしくないな。何かあった?」
ー泉らしくない…?何それ…。私は常に、完璧でなきゃいけないの…!?
気がつくと、泉は涙が止まらなくなっていた。