煮沸 Vol.5

人間は、気づかずに狂い続ける。この社会でゆっくりと…壊れていったのは誰なのか

ー 東京都港区、会社役員、橋上恵一容疑者(41)を業務上横領で逮捕 ー

事件を起こした自分を理解するため、橋上は教育心理学者の飯島に、手記にした記憶の分析を依頼する。

「幼少期から人格が壊れている」ことを告げられた橋上は、やがて手記に書いた兄『大輔』が実在しないことを飯島に指摘され、精神のバランスを大きく崩しはじめる。


そしてある日、30年ぶりに面会に訪れた父『和夫』との接触から、自分が母である『君江』から虐待されていたこと、そして“思い出してはいけない”存在である『大輔』と引き離されていた過去を思い出す。

大輔の人格を再び宿した恵一。


…そして大輔は恵一に忠告をする。


「君江がやってくる」と。


昭和40年 墨田区 白沢団地


300メートルの長さを誇る巨大団地。夢見る家族の憧れの住まい。

敷地内の遊び場で、命を謳歌する子供の声がいつまでも鳴り響く。


そこに、未来を疑うものはいなかった。


20歳を機に、大学近くに下宿をするため、1人の青年がその団地を後にしようとしている。


「…ちゃんとご飯食べるのよ。休みの日に和明の勉強も見てやってよ。来年、受験なんだから」

母が玄関で古臭いあずき色の風呂敷を渡しながら言う。

「これ、ご近所への菓子折り入ってるから。ちゃんとご挨拶するのよ」



最後まで言葉を発さなかった父が、居間で新聞に目を落としながら言う。

「和夫、しっかりやれ。一生懸命やれば、人生は必ず開ける…」




そしていま。

朽ち果てたその団地の5階で、当時の青年が最期を迎えようとしている。



体が動かない。

男は明確に死を悟る。

ガスコンロの上の鍋が湯気とともにコトコトと音を奏でる。


窓の下から、再び子供たちの笑い声が聞こえる。


無意味な生に、死があってよかったと思う。

自分が終わる喜びに勝る喜びなど無い。





……






ードンドンッ!

玄関の扉を激しく叩く音がする。


ードンドンドンドンドンドンドンドン!

外の廊下に面したガスコンロの上の小窓を、さらに叩く音がする。


入ってくればいい。鍵などしていない。



……



ー静寂が戻る。



男は、状況を理解する。

早く、早く死ななければいけない。


まだ動く目を、音がしたほうに向ける。




緊張は眼球から引き起こされることを、死に際にまでも学ぶ。

聞こえていた子供たちの声が消える。



そして悟る。



無意味な生は、終わりすら自分で決めることができないことを。

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