煮沸 Vol.2

開けてはならぬ記憶の扉が、いま動く。この男の記憶は、すべて都合良く歪曲された幻なのか?

ー 東京都港区、会社役員、橋上恵一容疑者(41)を業務上横領で逮捕

仕事を懸命にこなし、家族を思い、夢を追いかけ、


そして私は破滅した。


『人生の一番はじめから記憶を遡って、特に印象に残っている出来事を思いつくままに書いて、私に送ってください』

教育心理学者である飯島の分析のため、刑務所で自分の記憶を手記にする作業を開始した、橋上。

ーいつから間違ってしまったんだろう…?


貴方にはわかるだろうか?
IPOまで果たした優秀な彼は、「いつから狂っていたのか」。


『十分。幼少期から、十分、あなたは壊れはじめています』

飯島が放った言葉が、喫煙部屋のタールのように脳裏にこびりついて離れない。

触らずとも、ベタベタしていることが感覚でわかる。

『記憶はね、”認識”なんです。事実に解釈が加わって、はじめて記憶です。誰でもいい人生だったって思えるように、うまくできてるんですよ』


時計の針は17時半を指している。夕食の後の『余暇時間』だ。

今日は父について、最も鮮明な記憶を書いてみることにする。


父親


小学校高学年になった頃から、父がよく家にいるようになった。

公立校だったが越境通学をしていたため、近所に友達のいなかった私は、家に帰ると父がいることが嬉しかった。

「お父さん、頭痛いの治った?」

返事はない。

「この前ね、家庭科で野菜炒め習ったんだよ。僕、作ってあげるよ」


体育座りで佇む父の周りで、忙しく家事をする母と、飼っていた亀が突然死んだと大騒ぎする兄が走り回る。腕で目を覆った父はまるで、数を数えるかくれんぼの鬼のようだ。

「お父さん、頭・・・」
「恵一!お父さんは大丈夫だから!」

母が低く震えた声で言う。私は慌ててグローブを持って壁ぶつけをしに外へ出た。



その日の夜だったと思う。

私は、笑っていない大人の、とても大きな笑顔を見た。

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