後輩の抜け駆け
それからしばらく経った、ある日のランチタイム。
「え!?いま、なんて…?」
同じジュエリーブランドの広報部で働く4つ下の後輩・香織の言葉に、菜月は驚きのあまり思わず突拍子もない声を出した。
「あ、えっと…」
そのまま固まっている菜月に、香織は潤ったピンク色の唇をおずおずと開く。
「急なんですが退職することになったんです。ずっと付き合ってた彼にバンコク駐在が決まって、結婚して帯同することになったので…」
彼女が同い年の商社マンと付き合っていることは、知っていた。ゆるい巻き髪に大きな瞳。お人形のような顔立ちの香織はお食事会でもいつも一番人気のモテ女である。
しかし意外にも内面はサバサバとしていて仕事も早い。菜月にとって初めてできた部下ということもあり、可愛い妹分のような存在だった。
「そ、そっか…。おめでとう!」
香織が申し訳なさそうな目を向けているのに気づき、菜月は慌てて笑顔を取り繕う。
しかし小さな棘が疼くように、心の奥がシクシクと痛む。その8割は、可愛い後輩がいなくなってしまうという寂しさだ。そして残りの2割は…。
「いいな、羨ましい」
思わず、本心が漏れた。
結婚願望のない年下彼氏に対するわだかまりは、菜月が自分で思う以上に溜まっていたようだ。そしていったん吐き出してしまうと、止められなかった。
「私なんてさ、もう5年も付き合ってるのに、それに香織と違ってもう32歳なのに、結婚の“け”の字も言われないよ…」
後輩の前で見せる顔ではないと思うものの、つい大きなため息が出てしまう。
すると香織はそんな菜月に、穏やかな声で、しかしきっぱりとした口調でこう忠告するのだった。
「菜月さん…結婚したいなら、その彼とはもう別れた方がいいんじゃないですか?」
広がっていく溝…
−その彼とは、別れた方がいいんじゃないですか?−
人影がまばらとなったオフィス。残業をしながらも、菜月の頭の中は昼間、香織に言われた言葉がリフレインしていた。
実際、菜月だってそう思ってはいたのだ。ただ、無意識にその考えを排除していただけで。
しかし他人は簡単に言ってくれるが、そんな風に割り切れるものなら菜月だって、結婚願望なしの年下男となんてとっくに別れている。
それができないから、こうして思い悩んでいるのだ。
菜月はおもむろに、デスクの引き出しからフリスクネオ ストロベリーミントを取り出し、口に入れた。
いつもはペパーミント味を食べているが、最近は新しく見つけたこの味を菜月は気に入っていた。
舌先で転がすと甘酸っぱい味わいが広がっていき、傾きそうな心を引き止めてくれる気がする。
それに大粒なので味わいが長続きして、じっくり物事を考えたいときにもピッタリなのだ。
来月には新作ジュエリーコレクションの発表会が控えている。実は、菜月はそのチームリーダーに抜擢されており、今日も関係各所から出ている要望や変更点をまとめるべく残業しているのだった。
イベント会社との折衝や社内調整は想像以上に骨が折れたが、少しずつ形になっていく達成感は格別で残業も苦にならない。
ここのところ忙しく、爽太にも会えていない。そしてここからは、さらに忙しくなっていくに違いない。
少しずつ開いてく溝に気がつかない訳ではないが、目の前の仕事に打ち込んでいると、不思議と心穏やかにいられるのはありがたかった。
◆
そして迎えた、発表会当日。
菜月の運命は、思いがけぬ転機を迎えることとなる。