東京いい街、やれる部屋 Vol.4

大人の魅力溢れる40代男の、千鳥ヶ淵の絶景を拝める異空間な部屋


千鳥ヶ淵を眼下に見下ろす絶景、目の前に広がる桜の絨毯


部屋があるという千鳥ヶ淵には同じ桜の季節に何度か来たことがあった。深夜なので静まり返っているが、昼間は人で溢れかえっているはずだ。

そしてそこは、英治のその人柄がそのまま空間になったような場所だった。100平米以上ありそうな広い部屋と、大きなバルコニー。バリから自分で調達したという家具は涼し気に配置され、確かに南の島にひっそりと佇むハイクラスリゾートのヴィラのようだった。リビングの高い天井には大きなシーリングファンが優雅に2つ並んでいる。

そして、眼下には日本でも有数の桜の名所が、桃色の絨毯のように広がっていた。

エリートサラリーマンの豪華なタワーマンションのパーティにも、成り上がり社長の豪邸お披露目パーティにもしょっちゅう参加していたが、こんな部屋が東京のど真ん中にあるなんて奈々は知らなかった。

「鍵、あげるから、これから自由に使って。」

柄にもなく緊張し、馬鹿みたいに立ち竦む奈々を英治は背後から抱きしめ囁く。気づけば心地の良いボリュームで、バッハのBGMが流れていた。

愛人にはなれない。桜並木の下で決めた、哀しい決意。


奈々が目を覚ましたのは6時前という早い時間だったが、当然のごとく隣に英治はいなかった。テーブルに置かれた書置きらしきメモを見る気にはならなかったが、外の桜の景色は壮大すぎて目を奪われずにはいられなかった。窓辺にある何かの神様を象ったような石像が、上品なアルカイックスマイルを奈々に投げかけてくる。

ノロノロと支度をして外へ出ると、今度は頭の上にまばゆい桜が広がった。まだ人の少ない千鳥ヶ淵をぼんやりとした頭で歩いていると、そのまま桜に飲み込まれてしまいそうだった。こんな日に限って、どうしてこんなに天気が良いのだろう。

そういえば、と、昔この近くの女子大に通っていた友人お勧めのパン屋『Factory』の存在を思い出した。無性にコーヒーが飲みたくなる。いらっしゃいませ、と、温かすぎる定員さんの笑顔に怯みながらも、奈々は席に着きやっと少し落ち着きを取り戻した。

...英治の愛人にはなれない。

そうなるには、奈々は英治のことが好きになり過ぎた。涙が滲みそうになるのをぐっとこらえてベーグルを齧る。あの部屋といい、千鳥ヶ淵といい、このパン屋といい、英治の周りのものは品もセンスが良すぎる。きっと彼の家族もそうなのだ。思い出す程に、どうしようもない惨めさと悔しさが交互に襲ってくる。

既婚者にどっぷりハマって抜け出せなくなる女はたくさん見てきた。彼女たちを馬鹿だと思っている。そうはなりたくないし、自分は馬鹿じゃなない。だからもう会わない。

ふと、英治に「ちょっと面白かったから読んでみて」と渡された小説が鞄の中に入っているのを思い出した。

軽い小説で、40代のサラリーマンが急にリストラされタクシードライバーに転職し、自分の人生を悔やみ振り返るというありがちなストーリーだった。あれほど成功を収めた男が、こんな庶民すぎる小説を奈々に勧める意味はよく分からなかったが、少しだけ救われたような気分になった。

そろそろ、本当にちゃんとしよう。ああでもないこうでもないと、男たちの人間性や住まいをデューデリジェンスするのもそろそろ潮時なのかもしれない。堅実な相手を探そう。

夜は美羽に会って一連の話を打ち明けることにした。たぶん半分面白がって、でも真剣に聞いてくれるだろう。男好きは否定できないが、ダメージを受け過ぎたとき、気心の知れた悪友の存在は有難い。

数か月後、「奈々はバブったオトコの愛人になりかけた」と、英治は笑い話の一つになった。


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