寛は予定通り、シンガポールへ向かった。愛子が「一緒に行くことはできない」と告げると、寛にしては珍しく引き下がらず、愛子を説得しようとした。また同じようなことが起こるとか、シンガポールの魅力とかそんなことを切々と説いた。
6年前にシンガポール行きを断った時とは熱量がまるで違った。それくらい自分のことを心配してくれているのだと思うと、愛子は感謝と申し訳なさで、言葉が出てこなかった。
それでも、やはり太一とやり直すことを告げると「納得はできないけど、わかったよ。本当に残念だ」そう言って奥歯をぎゅっと噛み締めていた。
葵はといえば、しばらくは太一へのLINE攻撃がすごかったようだが、ある日を境にそれはパタリと止まった。
葵はこのわずかな間に、大晦日の夜に知り合い何度かデートした男に標的を変えていたのだ。その男は、知り合った当初のデートでイマイチな店に連れて行かれ、葵のテンションは上がらなかったため、お友達レイヤーに入れていた。
三軒茶屋に住んでいることも、葵の中ではマイナスだった。「だって、彼氏が三茶に住んでるなんて、友達に言えないじゃん。やっぱり港区じゃないと、ね」そう言って笑っていた。
だが、同じ飲み会に来ていた友人と久しぶりに会い、三茶の男が実は名古屋に本社がある商社の次男坊だと聞いて、葵はすぐにロックオンした。葵は信じているのだ。自分はまた次のステージに行ける、いや、行くべき側の人間なのだと。
「太一さんにはそれなりに美味しい思いもさせてもらったけど、不倫に夢中になるなんてやっぱり私らしくないなって思って。ある日いきなり我に返ったっていうか、夢から覚めたっていうか、そんな感じ。」
そんなことを悪びれることなく言っていたらしいと、葵と出会った飲み会に誘ってきた太一の友人から聞かされた。
太一と愛子は呆れながらも、その逞しさにはうっかり感心してしまった。きっと葵には葵の、東京で紡ぐべき物語があるのだろう。葵の生き方を肯定するつもりはないが、誰かの生き方が正しいとか正しくないとか、他人が決めるべきでないことを愛子は知っている。
◆
空港内の『二尺五寸』で愛子と太一は向かい合って日本酒を飲みながら、せいろそばをすすっていた。
会社から直接来た太一は空港に着くとすぐに着替えてビーチサンダルに履き替え、気分はもうすっかりバカンスだ。太一は今回の旅行で、愛子への謝罪と感謝の気持ちを少しでも伝えたいと考えている。空港へ移動する電車の中では、ビーチで笑う愛子の顔ばかり想像していた。
思い切り仕事して、幸せな結婚を手に入れ、恋愛の楽しさも味わいたいなんて、欲張りで贅沢なことは十分わかっていた。だがそれも、東京だと許してくれると甘えていたのだろうと反省している。
すぐに心を入れ替えるのは難しいが、少なくとも愛子を傷付けないよう、細心の注意を払わなければと太一は気持ちをあらためた。
◆
人生は続いていく。子どもという「かすがい」を持たないDINKSは、より深い所で共鳴し、求め合っていないと一緒に居続けるのは難しいのかもしれない。
東京で人生を謳歌できる豊かさと自由を持ってしても、夫婦で居続けることを選んだ太一と愛子。奇妙でいびつな関係にも見えるが、これが東京DINKSのひとつのカタチだった。これが幸せなのか、そうでないのか…その答えは、これから2人で、時間をかけて作っていくのだろう。
Fin.
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