潤んだ瞳を向ける愛子を見て、寛は「何言ってるんだよ」と爽やかに笑い飛ばした。
「愛子はもう結婚してるんだから、そんなこと言っちゃまずいんじゃないか。」
嫌味のない笑顔で明るく言われ、愛子は急激に自分の事が恥ずかしくて仕方なくなった。
自分だけが、期待を抱いて臨戦態勢で臨んでいたのだと思うと、今すぐに消えてしまいたかった。ワンピースも靴も下着も、この時のために選んだ全てを、今すぐ身体から剥がしたかった。
「そうだね、ごめん。笑えない冗談……。」
なんとか笑顔を作り、それだけ返すのが精一杯だった。
「そうだよな」と笑った後、「俺は酔い覚ましに恵比寿まで歩くけど、タクシーを捕まえようか?」と寛が言った。
「大丈夫。ちょっと目黒駅の方で寄りたい所があるから。」愛子はあえてゆっくり、そう答えた。
店を出ると「じゃあ、また。気をつけてな。」としっかりと目を合わせて寛が言ってきた。愛子の誘いを断った事を気にして気を遣われているようで、愛子は余計に惨めな気持ちになった。
山手線と並行している道路を愛子は目黒へ、寛は恵比寿へとお互い逆の方に歩き始めた。
愛子には寄りたい所なんてなかった。ただ、早く1人になりたかった。10歩ほど歩いたところで、愛子は何かに足を取られ転びそうになった。気が付くと右の靴が脱げ、右足にひんやりとした冷たさが伝わってきた。振り返ると寛の姿はなく、愛子の片足だけのルブタンがポツンとあった。ルブタンの細いヒールがマンホールの穴にはまってしまったようだ。普段であれば、マンホールの近くや石畳の道路を歩く時は細心の注意を払っているのに、今はそこまで気が回らなかった。
愛子はひょこひょこと歩いて行き、寛に見られなくて良かったと安堵しながら、力を入れて靴を引き抜く。これがルブタンじゃなければ、思い切り地面に投げつけていたかもしれい。見るとヒールには4cm程の傷がくっきりと入っていた。ショックを受けながらも、人目を気にしていそいそと靴を履いた。
靴を履くと、何もなかったかのように再び駅の方へ向かって歩き出した。ジンジンする右足の親指には気付かない振りをして、寛にはもう二度と会うまいと愛子は心に決めた。
◆
葵はiPhoneで太一のフェイスブックを、かれこれ1時間近く見ていた。
太一の妻を探すためだ。それはとても簡単だった。フェイスブックで太一と同じ名字の「田中」で検索しただけ。太一の友達337人の内、田中は4人、目黒区在住で女性の田中は1人だけだった。目黒区の「田中愛子」はご丁寧に名字を2つ入れていたので、既婚者であることも確定した。
フェイスブックでも既婚者オーラを一切出していない太一だが、太一のページを遡ると、3年前に友人からタグ付けされた写真の中に、妻の名前を決定づけるコメントがあった。写真では友人カップルの家らしき場所で太一と「田中愛子」が寄り添うように並び、『新婚さんが遊びに来てくれました!幸せ分けてもらいました〜』と書かれていた。それを見て、葵は確信した。
田中愛子のページを見ると、少し俯き気味に笑っている写真がプロフィールに設定されていた。プロフィール写真以外には3枚の写真を見ることができた。
—太一さんの奥さんってこの人なんだ。私と真逆のタイプだー
そう思いながら、愛子の写真を見て、妙な違和感を覚えた葵だった。
東京DINKS
国内で360万世帯いるといわれる、意識的に子どもを作らない共働きの夫婦、DINKS(=Double Income No Kids)。東京のDINKSの生態を描いていきます。
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