「一緒に花やしきに行きませんか? チケットを2枚、持ってるんです」
夜9時をすぎた銀座でこんなふうにナンパされたら、葉子ではなくても驚き、立ち止まってしまうのではないだろうか。
そもそも、花やしきはとっくに閉園しているはずの時間だし、花やしきがある浅草と銀座を結びつけるキーワードが瞬時に思い浮かばない。
だから葉子が、
「いま、開いてるんですか?」
と脳を経由しない脊髄反射をしてしまったのは、当然ともいえる話。その葉子のリアクションに、ナンパしてきた男が、
「じゃあ、これから企画を練りましょう」
破顔しながら相乗りしてきたのは、当然……ではなく、彼の作戦だったのだろう。
そして2人はいま、銀座八丁目にある『玉木』にいる。
カウンターで隣に座った彼の自己紹介によると、名前は中田厚彦というそうだ。年齢は39歳で、7大商社のうちの一社に勤務する営業マンだという。
「私、そんなに暇そうにしてたかしら?」と聞いたら、「あまりにも好みのタイプの美人がいたから、思いきって声をかけてみた」とのたまう。
嘘っぽいほめ言葉……。でもできればあと3回ぐらい言って!! ——と言う代わりに、
「うれしい。ありがとう」
と葉子も自己紹介をする。高嶋葉子、今年35歳です。食雑誌である『月刊東京ウォーキング』の編集者になって10年目。だけど職業は、ただ「雑誌の編集」とだけ言うことにしている。
食通と決めつけられるのはイヤ(B級グルメも大好き)だし、食通ぶられることにも辟易しているからだ。
「いません」
これも脊髄反射として葉子の本能にインプットされている、「彼氏いるの?」という質問に対する答えだ。
言ってしまったあとで、7歳年下の恋人、京太郎の顔が脳裏をよぎることもあるけれど、京太郎は仕事上、私が男と2人で食事をする機会が時折あることを理解してくれているからいいだろう、と自分を納得させる。いまは仕事ではないけれど。
それに私は、京太郎はもちろん、ほかの男とも食事をするのが大好きなのだ。お酒を飲んでも食欲がおとろえず、つぎつぎとオーダーする私を、彼らは目を細めて喜んでくれる。この、見守られている感じが心地いい。この感覚、同性相手では決して味わえない。
美味しそうにごくごく喉を鳴らしてビールを飲む男の横顔を見ながら、その端正な鼻筋に葉子は見惚れた。
一瞬、その隙を見逃さず視線を合わせてきた中田の熱い眼差しを避けながら、葉子は今宵の予感に胸が躍った。
そんな葉子の心の内を知ってか知らずか、中田は目尻を下げながらニコニコという。
「女の子の食べっぷりがいいのは、見ていて気持ちがいいね」
「だってこのメンチカツ、衣も肉汁もどうしようもなくおいしいんだもの。もう1つぐらい食べられそう」
「とても初対面とは思えない食べっぷり」
「……すみません。でも、私も初対面とは思えません」
「お互いに“初対面とは思えなかった記念”に、もう1軒行かない?」
「ごめんなさい。私、ここを出たら編集部に戻らなければいけないの」
こんな時間に戻って仕事をするなんて嘘でしょ!? と駄々をこねる中田を「つぎは花やしきに行きましょう」と振り切る。
さっさとタクシーに乗り込んだ葉子に、中田が後部座席に身をかがめてなにかを渡そうとする。とっさに葉子は、「あ、大丈夫です!」と言ってしまい、それがタクシー代ではなく、浅草花やしきのチケット2枚だったことに赤面する。
いまだに20代前半のころ、男たちから注がれたチヤホヤが身に染み込んでいる自分を、どうしようもなく恥じる。しかし、それに中田が気づいていないことに、葉子はホッとした。
「渡しておくから、誘ってください。今夜、あなたが僕を気に入らなかったら捨ててくれてもいいから」
必死の形相に浮かぶ眉間のしわや、不安でたまらない目の奥で揺らぐ炎を葉子は、とてもかわいいと思った。
タクシーのドアが閉まる。
「表参道までお願いします」
さあ、今夜は徹夜! 美味しいメンチカツパワーで仕事を頑張るか。と仕事へ意識を戻しつつも、あのまま二軒目に行っていたら……とも想像する。あれが恋につながる出会いになっていたとしたら、人生の選択肢の幅が広がったかもしれない、と考えてしまうのだ。
結婚適齢期といわれる20代から30代を仕事に費やし、独りで生きていくと決断した先輩を何人か知っているが、それは葉子があこがれる理想像ではない。婚活市場では35歳を超えると女性の市場価値が暴落すると聞いたことがあるが、いままさに自分は35歳。
人生のターニングポイントを迎えていることも自覚している。自覚しているくせに、まだ結婚は考えられない京太郎と交際するリスクも充分にわかっている。リスクを回避するために、一瞬でも中田と縁をつなごうとした、ずるい自分のことも。
だが葉子は、男が人生における救世主にはならないことを、過去の体験で学んでいる。失恋したときになんとか立ち直ることができたのは、多忙を極める編集という仕事のおかげだった。
仕事で結果を出すことでアイデンティティを取り戻すことができた。いわば葉子にとって仕事とは、自分が自分であるためのよりどころなのだ。
だからこそ、たかが一晩、されど一晩の手抜きすら、強迫観念から葉子は自分に許すことができない。
仕事と恋のバランスをうまくとらなければ、女としての幸せが遠のくことがわかっているのに、「仕事に戻りなさい」という、本能のささやきに従ってしまう。
ふう……。ため息をつきながら、花やしきのチケットを無造作に鞄へとしまった。こうして働きマン、葉子の夜は更けていくのだった——。
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