医師たちの婚活事情はなかなかにハードだ。
健太郎(34)は都内の私立医大を卒業後、虎ノ門にある明慶病院に入局して、今年で5年目になる。メジャーの内科で、180cmを超える長身に「クラシコ」の白衣をさらりと羽織り院内を歩く姿は、自分で言うのもなんだか、なかなかにサマになるものだ。
ラグビーで鍛えた体は、最近の不摂生をもってしても、同年代の体よりは幾分マシで、当直明けの欲求不満を狙って攻めるナースたちの攻勢に応じるだけの体力も十分にある。「先生」と甘い声で言い寄られれば、悪い気もしない。特段彼女もいない健太郎は断る理由もなかったが、その後の女の結婚を意識した薄っぺらい攻勢が億劫で、極力ナースには近づかないようにしていた。
引く手数多の健太郎は、銀行勤務の(したたかな)女も、(頭の悪い)モデルも、数多の院内ナースたちとも付き合ってはみたものの、結局は、両親、特に母親の猛烈な反対によりほどなく別れ今に至る。親の反対と言っているが、自分にそれを押し切るほどの熱意がなかったのも事実。
しかし、今年の8月で35歳、四捨五入で40歳だ。
今年の夏こそ、本気の恋をして、たった一人の人と出会いたい。
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5月のある日、麻酔科のサトシに誘われた食事会で、赤坂アークヒルズにある『ルビージャックスステーキハウスアンドバー』にいた。広々としたテラス席はソファ席も充実して、この季節はきっとデート客で予約がすぐに埋まるのだろう。若葉の匂いを纏う湿った風は、夏のはじまりを予感させる。
先ほどからサトシは常套句で医者のダイナミクスを語っていた。麻酔科は、比較的定時で終われるため、サトシは、アフター6を、医師免許を水戸黄門の印籠さながら振りかざして、このような食事会に励んでるようだ。
女性たちは目をきらめかせて「命に関わる仕事ってやっぱりすごいですね」と賛辞の嵐。
健太郎は、女性たちとサトシの美辞麗句の応酬に苦笑いした。
熟成肉が売りらしいこの店の店内には生肉が吊るされている。サトシの雄弁なパフォーマンスをBGMに、グリルで香ばしく焼き上げられたエイジングビーフのステーキを掻き込む。そういえば、昨日の当直から今までひなびたサンドイッチしか食べていないことを思い出して急激に食欲にスイッチが入った。
ふと、ある女性がサトシの流暢な演説にストップをかけた。
「お医者さまって時給換算したらめちゃくちゃ安いのに、何で高給取りって思われるんでしょうね?」
声の主は、麻里(29)赤坂にある代理店の営業職だという。
健太郎の視線が、手元のステーキから麻里に移る。
はっとするような美人ではないが、センスが良く洗練されていて愛らしい顔をしている。白地に紺の細いストライプがはいったジャケットをさらりと着て、今年流行りの白のガウチョパンツを履いている。スラリとした身長に、華奢なマノロのヒール、腕にはメンズライクな大きめのIWCがアクセントになっている。
「特に勤務医なんて、過酷過ぎて割に合わないんじゃないですか?もっと貰ったっていいのに、ねぇ。サトシさん」
サトシは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
打算と計算の厚い衣で着膨れしたきな臭い女たちに辟易していた健太郎は、素直に麻里に関心を持った。
自由奔放に発言しているが、その発言は棘がなくユーモアを含んでいた。サトシの行き過ぎた雄弁にピシャリと冷水を浴びせた形となる。
ーこの子、面白いな。ー
ふと麻里の右手の薬指に光るホワイトゴールドの細いリングが目に入った。
ーファッションリングのような気もするが、恋人がいるのだろうか。ー
麻里自身にも惹きつけられたが、こんな女性の隣にいるのはどんな男なのだろうと殊更興味を掻き立てられた。いるかいないすら分からない、まだ見ぬ男の姿を想像して、緑色の目をした嫉妬という怪物がうずくのを感じて健太郎は驚いた。
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