「どうして、ですか?話さなければ、あなたが…苦しいままなのではないですか?」
大分の旅館で、あの魔女のような医師は、キョウコには1人で抱え込んだ秘密があり、それが大きなストレスになっている、と言っていた。そのせいでキョウコは倒れた。そしてその秘密とは、自分との別れに関係しているようだと知ったのだ。だから。
「オレたちの別れからもう随分経ちました。もしもあの時の苦しさがまだ残っているのなら――キョウコさんも、もう解放されて欲しいんです」
「解放、ね」
キョウコは微かに唇を上げた。
かつて大好きだった、時に冷たく見えるほどの穏やかな微笑み。懐かしさが大輝の胸をかすめる。
「解放なんかされたくないから」
優しく、でも凛とした声だった。
「あの時の選択、あの時の痛みがあるから、今の私なの。後悔もしていない。だから今更それを口にするのは違うなって…やっぱり今日――はっきりとそう思ったから。友坂くんに話すことは、もうないわ。
私たちはお互いに今を選んだ。今を進んでいく私たちにとって、過去の答え合わせほど意味のないものはないでしょう?」
まるで宣誓のようなキョウコの言葉に、大輝は息を呑んだ。
「きっと今日で最後ね。2人きりで、こうやって会うのは」
「…キョウコさん」
「これからもきっと、現場では顔を合わせるだろうけど。あなたと仕事ができて本当によかった」
「それはオレも、です」
「あなたに負けないように、面白い脚本を書き続ける」
「……」
「本当にありがとう。沢山……ありがとう」
キョウコの笑みが大きくなった。珍しく鮮やかなボルドーの唇のせいか――その笑顔は、雪の中で咲く鮮やかな椿を思わせ、一瞬見惚れた。
キョウコは伝票を掴むと、涼やかな所作で立ち上がった。そして、振り返ることなく店を出て行った。
◆
車は夜の首都高へと滑りこんだ。東京のビル群の光が疲れた目に眩しくにじむ。もう30分もせずに、2人で暮らす中目黒の自宅に到着する。
助手席で、ともみが「ん…」と身じろぎをし、大輝のジャケットの裾を無意識にぎゅっと掴んだ。大輝の口元が自然とほころぶ。
出会い、愛して、別れて、また出会う。人と人とのつながりは、ふとしたことで簡単に壊れてしまう。だからこそ、たとえ傷つけあっても心をさらけ出して向き合っていくしかない。助手席で眠るこの温もりを、今度こそ見失うことのないように――誓いを立てるように、大輝は、ハンドルを握る手にぎゅっと力を込めた。
◆
真壁リオが築き上げた音楽の城は、記者会見の翌朝から音を立てて崩壊していった。自分は嵌められたのだと往生際の悪い抵抗を続けながらも、結局、真壁は代表を辞任。それでも事態は収まらず、刑事告訴と民事訴訟、そしてメディアや世論の猛反発を受けた。
大手レコード会社やスポンサー各社は一斉に手を引き、看板タレントたちの移籍と独立が相次いだ。そしてあのフェスから冬を越え、季節が春へと巡った今。
― 完全に潰れた、か。
BAR・TOUGH COOKIESの開店準備を終えたともみはカウンターの中に座り、リオ・プロモーション倒産にまつわるニュースをスクロールしていた。
松本公子も今や行方不明だった。莫大な借金の返済ができるわけもなく、完全に消されたのではないかという物騒な噂まで出回っている。
― まあ、私も多額の借金を抱えたわけだけど。
大活躍してくれた佐藤弁護士からの請求は、予想通りに恐ろしい額だった。必死の値引き交渉に挑んだものの、減ったのはほんの数十万円。
月々のローンで今後何十年も払っていくことになりそうだと途方にくれるともみに、佐藤は、ニコニコと言った。
「ともみさんが金払いの良いお客さんを紹介してくれたら、その度にガツンと安くしますよ。今後とも長いお付き合い、よろしくお願いしますね」
とはいえ、金にがめつい佐藤に人を紹介するのも気が引ける。ただし腕は確かなのだから、本当に困ったお金持ちがいたら、遠慮なく紹介させてもらおうとともみは密かに誓っている。
YUMEはあの後、アメリカの超一流エージェンシーにスカウトされ、あれよあれよという間にLAで暮らし始めた。ただし、顎の骨の治療や心のケアなど、無理は禁物という医師の判断により、本格的なデビューは来年になると、つい1週間ほど前のメッセージで教えてくれた。
白石ミウと親友の神崎アリスは、佐藤弁護士の尽力により違約金を払うことなく不当な契約から解放され、新たなプロダクションへの移籍が決まった。
真壁が手放したくないと縛り付けた才能はやはり本物で、2人組でのメジャーデビューが半年後に決まったと、こちらも連絡をくれたばかりだ。
「ともみさん、3軒回ったけどミントは売り切れだった~。代わりにバジルはあったから買ってきたけど、大丈夫そ?」
買い出しから戻ったルビーが、カウンターの端にどさりと荷物を置く。「今日の分はまだあるから大丈夫よ、ありがとう」と伝えると、あっ、でもさぁ、と甘えるようにともみを覗き込んできた。
「今日のお客さまが、もし、ミントのお酒ばっかり頼む人だったら困るよね?アタシ、今からSneetに行ってミチさんに借りてこようか?」
「…ミチさんに会いたいだけでしょ。毎日会いに行ってるくせに、どんだけ好きなのよ」
「死ぬほど大好き!でもまだ、彼女にしてくれないのは、なんでぇ~?」
ルビーは相変わらずミチに爆裂片思い中…というが、そろそろミチが根負けしそう、とともみは思っている。けれどルビーには「だからともみさんは、恋愛センサーが死んでる、って言われるんだよぉ」とからかわれてしまう。
「自分で言うのも悲しすぎるけど、今のところ全っ然、脈無し。昨日、206回目の告白してフラれた」
「……数えてるの?」
「うん、悔しいからカウントしてる。でも負けないの。何十年かかっても、絶対ミチさんの彼女になるんだもーん」
お祖母ちゃんになっても諦めない!と宣言するルビーは可愛すぎて、なぜミチがルビーに恋をしないのか、ともみは心底不思議でならない。
「あ、そういえば再来週あたり、私2、3日休みもらいたいんですけど、大丈夫かな?」
「いいけど、あ…宮城?」
「そ!顔見にこいってうるさいからさ」
実は――余命1年の宣告を受け、一時は危篤状態にも陥ったルビーの母・明美が、体調を持ち直したのだ。
病状そのものが完治したわけではなく楽観視ができないものの、ルビーが寄り添って過ごした日々の幸せが効いたのではないかと、担当医はともみにも連絡をくれた。
「ゆっくり、お母さんに甘えてくるんだよ」
「…は……?何言ってんの?甘えてんのはあっちなの。アタシが甘やかしてやってんの!何度も言うけど、アタシ別にあの人を許したわけじゃないからね」
はいはい、とともみがいなし、ルビーが口を尖らせたその時、扉が開き、ゴツ、ゴツ、と聞き慣れた重いヒールの音が入ってきた。
「相変わらず、やかましい店だねぇ」







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この作家さんが描く、次の物語を楽しみに待っています!