スタッフが声を張り上げた直後、会場全体にシークレットゲストの登場を告げるサプライズのアナウンスが流れ始めると「おおおお!」と、どよめきが大きくなる。
ともみの喉が緊張で乾き始めた時、仮面の奥の瞳が、まっすぐにともみの視線を射抜いた。
「ともみさん」
歓声に負けない、凛とした声だった。
「そばにいてくれてありがとう」
やだ泣く、と慌てて唇をかんだ瞬間、ぎゅっと抱きしめられる。
「楽しんできますね、行ってきます!」
くるりと向けられたその背中に、行ってらっしゃい、と声をかける。暗転したステージへ続く階段を、YUMEは迷いなく駆け上がり、もう振り返らなかった。やがて5万人の地鳴りのような咆哮が、彼女への歓迎のように星が瞬き始めた夜空へと爆発した。
◆
暗転した巨大なステージの中央、ピンライトが一本、鋭く真上から降り注いだ。銀の仮面でマイクを持つYUMEの姿が浮かび上がる。
スクリーンにはシンプルな「SECRET ARTIST」の文字だけが躍っている。イントロのピアノが流れ始めると、SNSを席巻しているあの正体不明のアーティストの曲だと気づいた観客たちが、さらにざわめき始めた。
それは音楽を諦められなかったYUMEがはじめて作った曲。オーストラリアの片隅で、孤独の中で紡ぎ出した、切なく、けれど力強い旋律。マイクを握るYUMEの唇が、わずかに開いた。そして。
――その第一声が放たれた瞬間、会場は嘘のように静まり返った。透き通るように、どこまでも伸びていく高音。5万人が、呼吸すら忘れたかのように立ち尽くしている。
スピーカーから吹き出す振動が、ステージ袖に立つともみの肌をビリビリと震わせ、鳥肌が全身を駆けめぐる。
― リハとも……比べものにならない。
真壁の美学に沿った無菌室の美しさとはかけ離れた、生だからこそ響く、まるで慟哭。圧倒的なハイトーンから地をえぐるような低音まで、歌が泣いている。そしてその涙に会場も飲みこまれていく。
客席後方の高台に設営されたコントロールブースからステージを見下ろしていた真壁リオは、肘掛けを握りしめたまま、微動だにできずにいた。
「……何よ、これ」
掌に不快な汗が滲み、喉の奥から絞り出すような呟きが漏れた。リハーサルとは格が違う。真壁の背筋に、生まれて初めて味わう冷たい戦慄が走った。
― 私の世界が、壊される。
自分の支配が及ばない、想像を超えた世界が音で紡がれていく。今、たった一人で登場したYUMEが、今日出演したどの人気アーティストよりも、観客の心を奪いかっさらっていく。自分が創り上げてきた作品たちが、YUMEの歌声に粉砕されていくような恐怖に真壁の指先が震え出したその時。
感情の高ぶりに引っ張られたかのように、わずかに、YUMEのピッチがずれた。
真壁は反射的にコントロール卓のインカムを引ったくり、叫んだ。
「……PA!回線を切り替えなさい!今すぐ生マイクのレベルを落として、裏の音源トラックを全開にしなさい!」
「えっ……!?で、でも真壁さん、今の所以外はむしろ完璧ですし、会場も…」
インカム越しに、音響を調整するPA卓の若いエンジニアが恐れながらも反論する。それに真壁はさらに苛立った。
「口答えしないで!あの子は最近まで歌えてなかったんだから、これから先、ぶれが酷くなるかもしれないでしょう。今すぐAIの音源に変えて。私の世界に戻すのよ。フェーダーを落としなさい、今すぐ!」
自分の世界を超えていくものは排除する。狂気じみた真壁のヒステリックな怒声が回線に響き渡った。PA卓前で、若手エンジニアの手が引きつり、恐怖に震えながら生マイクのフェーダーへと伸び、生マイクの音を消そうとした瞬間――。
「触るな」
太くしわがれた、鋼のような声が若手の腕を横から掴み、力づくで払いのけた。腕を組んで背後に控えていた、50代のベテラン音響チーフだった。
「チ、チーフ……!?でも真壁さんが!」
「バカ、どう考えても生の方がいいだろうが」
チーフの鋭い眼光が、若手を射抜いた。
「聞けよ、歌を。見ろよ、観客を。5万人が震えてんだぞ。
お前も痺れてんじゃねーのか?あの子の歌声に。ここで音源にすり替えたら、お前もオレも、一生音楽屋を名乗る資格はなくなる……つーか、生マイクのゲイン、もう少し上げろ」
「えっ…?」
「このまま生歌だ。何があっても音源なんか絶対使うな」
「チーフ……!」
「責任は全部俺が取る。あの子の歌声を守ってクビになるなら、光栄だよ」
チーフがインカムのコードを乱暴に引き抜くと、コントロールブースからの金切り声は、完全に遮断された。
5万人もの観客がひしめくグラウンドの遙か後方で、真壁が地団駄を踏もうと、ステージ側に設置された音響ブースに乗り込んでくるときには、すでにYUMEは歌い終わっているだろう。それを計算したチーフの行動だった。
◆
一曲目が終わり、鳴りやまない拍手と歓声が満天の星空へ吸い込まれるように舞い上がる中、ステージ中央に戻ったYUMEがゆっくりと仮面を外す。
汗に濡れた素顔が大型ビジョンに映し出され――MCが「彼女の正体は…元QUINTZ-G、YUME!」とコールすると、スクリーンには、QUINTZ-G時代のYUMEの映像が流れ始めた。
客席の一部から「マジで…!?」「あのYUMEちゃん!?」との声が上がり、だんだんと大きな波になり、その中で2曲目が始まった。
YUMEが消えてから8年。
QUINTZ-Gは超人気アイドルというほどではなかったため、誰もがすぐにピンときたという様子ではなかった。けれど、2曲目を歌い終える頃には、そのざわめきは全世界規模の狂乱へと姿を変えていた。
ライブ配信のチャット欄には毎秒数千件のコメントが流れ、「あの覆面アーティストの正体が判明」「元アイドルの歌唱力がレべチ」「奇跡の生歌」というワードが一瞬でSNSの国内・世界トレンドのトップへ駆け上がっていった。
熱狂のステージを降りたYUMEとともみはただ何も言わず抱きしめ合った。そして感動と興奮の冷めやらぬまま、バックステージへ戻ると、セリーヌの――おそらく何シーズンも前の、着古したジャケットを身にまとった松本公子が、ヒールの音をけたたましく鳴らしながら駆け寄ってきた。






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