港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「ショックだったけど…」恋人の裏切りを知った後も、女が気づかぬ振りをして一緒に暮らし続けた本当の理由
Customer8:清川紗和子(50歳)老舗ギャラリー・更紗(さらさ)の元オーナー
「…恋人の裏切りに気づいたのは…いつだったんですか?」
「…もう、1年がたちますね」
さっき見た“結婚発表”の記事はつい最近のものだった。だれかの怒りを背負った気配など微塵もない幸せに満ちた笑顔の2人。もしかして。
「復讐の実行は、これから?」
「はい。2人は私に許されたと思っています。略奪を受け入れたふりをして、笑顔で婚約者を送り出したので。麻莉奈を地獄に堕とす――その計画の実行に必要な時間を稼ぐために、2人を騙して油断させる必要がありました」
◆
自分を世界的なアーティストへと育て上げてくれた、アート界の母とも言うべき紗和子の婚約者に、麻莉奈は無邪気に恋をした。そして、欲しくなったのだから仕方がないと、紗和子の前でも堂々とアプローチするようになったのだという。
「作品の目利きを外したことはないし、ビジネス相手の次の動きも、手に取るようにわかる。なのに…恋人の本質だけは…長い間見誤っていたのかもしれません」
そう言いながら、紗和子が揺らしたグラスの中のマッカランは、元の琥珀色が氷に浸食され、気の抜けたシャンパンのように薄まっている。紗和子は、適した状態の時に飲み干せなかったことを詫びながらも、まだ十分に量が残っているというのにきっぱりと、「グラスごと新しくしてください」と望んだ。
承諾したものの、オールドバカラのグビューの次に、どんな器を選ぶべきか、わずかな緊張を覚えたともみに、ルビーが、これは?と屈託なく差し出してきた。
「いいですね。そのグラス。ルビーさん、でしたよね。なぜこのグラスを選んでくれたんですか?」
ルビーは、なんとなく?と、コテンと首を傾げた。「では、なんというグラスなのかも知らずに?」と重ねた紗和子に、ルビーが、なぜそんなことを聞くのかという様子で、大きく頷く。
「これは、サンルイというフランスのクリスタルブランドのもので、トリアノンと呼ばれるモデルです。おそらく先ほどのバカラのグビューと同じ年代に作られたものだと思われますが…」
ともみに手を差し出しグラスを受け取った紗和子の指が、グラスの下部に刻まれた無数のダイヤモンドカットを鑑定しているかのようにゆっくりと撫ぜていく。
「この頃は、今とは違う鉛を使っていたので、今よりクリスタルが強かったんですよ。だから現行のサンルイのグラスよりも、深く模様を彫り、細かく刻むことができていましたし、色味も、青みがかっているでしょう?」
ほら、と光にかざされても、分からなかったのだろう。ルビーが「あ、お?」と、先ほどとは逆側に、またコテンと首を傾げる。
「先ほどのオールドバカラのグビューよりも、サンルイのトリアノンが希少なので、今も高額で取引されています。価格だけで価値が決まるとは言えませんが、それでもこのトリアノンの方が、グビューよりも一般的な市場価値が高いことは事実です。
この順番で出してくれる店なら、次の一杯のグラスは何になるのか、頼みたくなりますね。それに…」
深緑のアイラインで強調された紗和子の目が、壁一面に備え付けられた棚を見渡すように動いた。
「私の位置から見える範囲だけでも、この店には希少なものも量産品も…多くの器が統一性なく並んでいる。そんな中から、ただ“なんとなく”でこのグラスを、グビューの次として、直感で選び出せる――それこそがセンスなのだと思います」
「え?今、アタシ褒められちゃってる?褒められてるなら、とりあえず、あざっす!」と、大げさに頭を下げて、ニカッ、と大きく笑った。けれど紗和子は大した反応も示さず、静かにともみへと視線を移した。
「ともみさんは、悔しく感じたりしませんか?」
トリアノンの大きさに合わせようと、アイスピックを氷にあてようとしていたともみの手が止まった。





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