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楽しいランチを終えて、仕事のために目黒のイベントホールへと向かう。大盛況の就活イベントが終わり撤収作業が済んだ頃には、時刻は22時過ぎになっていた。
ランチのあとには、控え室にスタッフ用に準備してあったおにぎりを休憩時間につまんだだけだ。空っぽの胃袋は、今にも爆音を鳴らしそうなほどペコペコになってしまっている。
「廣田さんお疲れ!どう?このあと軽く飲みにでも行かない?」
「いえ、帰ります。こんな時間に食べると太っちゃうので」
今日のイベントのメインクライアントの男性がそう声を掛けてくれたけれど、私は笑顔を浮かべながら、でも、きっぱりとお断りした。
空腹のままホールを出て、駅とは反対の方向に向かう。最近は、徒歩1時間以内の距離であれば、大抵の移動は歩くようにしているのだ。
『俺…俺さ、女の子の体型なんて、全然気にしたことないよ』
一緒にラーメンを食べた夜、豪くんが言った衝撃の言葉は覚えているけれど…。
豪くんがいなくなってしまった今、私は、今度こそ自分の意思でダイエットに取り組んでいる。
空腹時のウォーキングは脂肪の燃焼効果が高いと聞いた。好きでもない男性と遅い時間に飲みに行くより、三軒茶屋の自宅まで1時間歩く方がずっといいに決まっている。
― それにしても、昼のパンは美味しかったなぁ。
帰り道にもう一度通った目黒川沿いで、可愛いポメラニアンを散歩させているカップルとすれ違う。
「クッキー、クッキー」
おそらくワンちゃんの名前だというのに、クッキーという言葉を聞いて思わずお腹が鳴ってしまった私は、逃げるようにその場を小走りで通り過ぎた。
ポメラニアンを連れていた彼女の方はどこかで会ったことがあるような気がしたけれど、もしも知り合いだったなら、なおさら恥ずかしい。
― やだ、さすがに食いしん坊すぎるぞ市子!
恥ずかしさで顔は真っ赤になっていたと思うけれど、暗い夜道なら人に見られる心配がないのは涙と同じだ。
― じゃあね、クッキーちゃん。いい名前だね!
心の中で密かに話しかけながら、早紀ちゃんからもらったクッキーともうひとつ大切なものを持って、家路を急いだ。
◆
「ただいまぁ、疲れたー!」
部屋に着くなり私が確認したのは、時計だ。ふたつの針が0時を指すまで、あと40分ほど残っている。
急いでシャワーを浴びて疲れを落とし、入念にスキンケアをする。気分が上がるようなお気に入りのルームウエアを身につけ、髪を軽く整える。
本当は熱いコーヒーを淹れたかったけれど、こんな深夜にカフェインを取って眠れなくなったら困ってしまう。最近気に入っているノンカフェインの紅茶を淹れて、カップに注ぐ。
そして、最後に準備したのは―――先月コンランショップで購入したばかりのシンプルなお皿と、カバンから取り出した紙袋だ。
看板を出していないお店の佇まいと同じく、無地の茶色の紙袋から中身を取り出してお皿に盛り付ける。
その横に早紀ちゃんの試作品のクッキーを少しだけ添えると、満を持して、パソコンを立ち上げた。
時計の針が、0時を指す。
Google Meetが接続される。
そして、少しのタイムラグの無音の後に無機質なモニターの向こうから聞こえてきたのは―――ロサンゼルスにいる豪くんの明るい声だ。
「市子、おはよう!今日も1日お疲れさま」
「豪くん、こんばんは!このあと仕込みなんだよね?ごはん、ちょうど色々支度できたところなの」
「俺も!じゃあ早速食べようか」
「うん、いただきまーす!」
まだ新しいお皿の上に載っているのは、テイクアウトしたサバサンドだ。
今日のランチで訪れたベーカリーで、お菓子をたくさん買っている早紀ちゃんと双葉ちゃんを横目で見ながら、私だけはずっしりとしたお惣菜のパンを購入した。
『あっ、例の“深夜の朝ごはん”ってやつだ!?』
『素敵〜!離れてるのはちょっと寂しいけど、本当によかったね。市子ちゃん』
ふたりに冷やかされながら買ったパンは、カフェの焼きたての籠盛りパンとは違ってひんやりと冷たい。
だけど、大好きな人と、遠い距離と時間を超えて食べるパンだから、女友達で食べる焼きたてパンと同じくらい幸せの味がした。
「市子は何食べてるの?」
「これね、サバサンド!豪くん今、サバ出汁の研究中でしょ?もしかしたら、一緒かもと思って」
「ねえ、まじで?俺も今サンドじゃないけどサバだよ。大当たり。大量に仕入れちゃったからね」
「やっぱり!出発前にお揃いで買ったお皿のパワーかな」
「たしかに。でも、サバサンドって揚げてるんだよね?深夜に食べるのには重くない?市子、大丈夫?」
「全然大丈夫。もともとは食いしん坊だもん。余裕!
それに、今日も一時間歩いてきたの。深夜に一緒に朝ごはん食べるようになって1ヶ月経つけど、私全然太ってないんだよ。偉くない?」
「もう。その話は、色々すれ違いがあったって確認したじゃん。俺は、市子がどれだけ太っちゃったって…」
「大丈夫、わかってるよ。私が、次に豪くんに会うときにも綺麗でいたいだけ。
ねえ、でも一応聞かせて!私がどれだけ太っちゃったって…?」
「あーもう。もう、何度も言ってるじゃんか。だから…どんな市子でも、大好きだよ」
幸福と旨みの塊みたいなずっしりのサバサンドが、あやうくこれ以上一口も入らなくなるくらい、胸がいっぱいになってしまう。
『いつも美味しそうに食べてる廣田さんのことが、ずっと好きだったんだよ』
豪くんがそう言ってくれたあの夜も、こんなふうに胸がいっぱいになってしまったっけ。
だけどその後、私の部屋で一晩中照らし合わせたお互いの話は、苦くて、甘くて、色々な発見があったのだ。
お互いに、高校時代から好きだったこと。
卒業文集に私が「将来の夢:結婚して幸せな家庭を築くこと」と書いたことを、豪くんもしっかり覚えていたこと。
美味しそうに食べる私が好きだったけど、大人になって再会した私はちっとも食欲がなさそうで、気持ちがあるのかずっと心配していたこと。
それから、どうしても仕事を辞めてラーメン屋経営に挑戦したい自分では、早くに結婚したいという私の夢を叶えられそうにないと思い詰めて―――。
「一緒にいても、幸せになれないから」
そう言って、別れを告げたこと…。
「市子、もうお腹いっぱい?無理しなくていいんだよ」
モニター越しの豪くんからの優しい言葉に、ハッと今に呼び戻される。
胸の中は幸せでいっぱいだったけれど、だけど、今すぐ抱きしめたい豪くんには触れられなくて、それが泣きたいくらい無性に切なくて、寂しかった。
だから私は、もう一度サバサンドにかぶりつく。
力をつけなくてはいけない。
ひとりで笑う力。
ふたりで乗り越える力。
いつか豪くんを追いかけるために、がんばる力。
いくつもの夜と朝を、結びつける力。
これまでにたくさんの深夜の美味しいものたちが、ここまで来る力を私にくれたから。
「ねえ豪くん」
「ん?」
「美味しいものって、幸せになれるね」
「うん。俺も、そう思う」
東京の0時は、ロサンゼルスの朝8時だ。
世界は狭い。幸せは美味しい。
だから私は、ひとりでもふたりでも、美味しいものをもっと知っていきたい。
時間は関係ない。明るい朝でも、真っ暗な夜でも―――。
つまらない悲しみに押し流されて、幸せを存分に味わわないことは、罪だと思うから。
Fin.
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