― えーっと、菜奈のプレゼントはたしか…。
幸い無事に子ども部屋を脱出することができた私は、眠気を引きずりながらフラフラとリビングへと戻る。
キッチンの奥、パントリーの一番上に、菜奈の欲しがっていた犬のぬいぐるみが隠してあるのだ。
― 大人として、ちゃんとやることやってから寝ないと。
そう意気込んで薄暗いリビングへ足を踏み入れた、その瞬間だった。
「…きゃあっ!?」
せっかく寝入った菜奈が目を覚ましてしまいそうな悲鳴が、私の口から飛び出る。
電気の消えたカウンターキッチンの、その向こう。ぼんやりとした冷蔵庫の灯りに照らされて、大きな影がゴソゴソと背中を丸めてうごめいていたのだ。
自分の声に驚いて口を思わず押さえると、影の方も同じく「うわっ」と声を上げながらこちらを振り返った。六郎さんだ。
「ちょ…いつの間に帰ってたの?」
「ごめん、起こしちゃった?いや、帰るって連絡入れようと思ったんだけど、ちょうど菜奈の寝かしつけ中だったら悪いなと思って…。もう菜奈寝たんだ?って、もう10時過ぎてるのか」
そう言い訳する六郎さんは、どこか様子がおかしい。妙に挙動不審で、冷蔵庫の方をしきりに気にしている。
「もう、LINEくらい入れてくれればいいのに。こんな暗い中で冷蔵庫なんか漁って、お腹すいちゃった?
今日も遅いと思ってたから準備してないけど、昼のチキンが少しくらいなら…」
「あ、早紀…いや、あの…」
驚きのせいでまだバクバクしている胸を押さえながら、私も冷蔵庫へと向かう。六郎さんはドギマギとした様子で冷蔵庫の前に立っていたけれど、しばらくすると、観念した様子で私に道をゆずった。
「…?」
いぶかしみながら、私は冷蔵庫を開ける。
そして私は、そこでもう一度───。
驚きの声をあげることになったのだった。
冷蔵庫の中に六郎さんが隠していたもの。それは、小さなチョコレートケーキだった。
「え…これって…」
ハッとして振り返ると、六郎さんは大きな両手ですっぽりと顔を覆い、汗を拭き取るようにして天を仰いだ。
六郎さんが何も言ってくれないから、私は自分で言葉を続ける。
「『ブボ・バルセロナ』のシャビーナ。
チョコレートケーキ、わざわざ表参道まで行って買ってきてくれたの?」
『ブボ・バルセロナ』は、スペインに本店を持つチョコレートブランドだ。
表参道に店舗があるものの、いつかはバルセロナの本店で食べてみたい。
新婚旅行はそのためにスペインに行くのもいいかも、と、付き合っている時に何度か話したことがある。
ケーキが箱からわざわざお皿に出してあるところを見ると、どうやら六郎さんは慣れない盛り付けに奮闘していたらしい。
よく見るとキッチンにはケーキの他にも、『ブボ・バロセロナ』らしい独創的で繊細なデザインのチョコレートがいくつも広げられているのだった。
呆気に取られる私に向かって、ついに六郎さんが口を割る。
「いや…この前のカヌレの時は、本当にごめん。せっかくのクリスマスだし、俺、本当に仲直りしたくて…。
菜奈の寝かしつけは今夜もやっぱり任せることになっちゃったけど、早紀が起きてくる時には、テーブルの上を飾っておくつもりだったんだ。でも、間に合わなくて…」
絞り出すようにそう言う六郎さんはものすごいしかめ面で、まるで切腹前の武士みたいに見える。反省のセリフからも、クリスマスらしいロマンチックさはこれっぽっちも感じられない。
だけど…。
私はおもむろに水切りカゴからフォークを取ると、立ったまま、お皿に置かれたチョコレートケーキを一口味わう。
濃厚なチョコレートの深い苦味。
シナモンやナツメグ、クローブ、黒コショウなどのスパイスの香り。
そして、それら全てをまとめ上げる、洗練された甘さ──。
たった一口舌の上に乗せただけで、瑣末なモヤモヤは溶け去り、つまらない日常が特別な日だったように感じる。
甘いだけでなく、刺々しくも、苦くもある。それは例えるならばちょうど、私たちの結婚生活みたいな味なのだ。
― そうだった、私…。
クリスマスは、もう私のものじゃない。
それは、学生時代の彼と別れて、六郎さんと付き合ってからもそうだった。
編集者という仕事柄、年末はとても忙しくて、クリスマスなんてとてもじゃないけどゆっくりデートはできなかった。
だけど、六郎さんはその代わりに、なんでもない日を特別にしてくれるのだ。
早紀に似合いそうな服を見つけた。
ずっと前に早紀が「行きたい」と言っていた宿を押さえた。
夜中にスイーツも天ぷらも食べられる、早紀と俺にぴったりの店を見つけた。
そんな風にさらっと、私を主役にしてくれる。
そして何より、私に菜奈というプレゼントをくれた人なのだ。
妊娠が発覚した時、ボロボロと泣いて喜んでくれた六郎さんの顔は、やっぱり切腹前の武士みたいで…。
六郎さんとなら、どんな苦しみも、どんな刺激も、きっと最後は甘い結婚生活になるんじゃないかって。たしか、そんな風に思ったのだ。
黙々とケーキを食べ続ける私に、六郎さんが小さく声をかける。
「早紀…」
「なに?」
「いや…」
「こんな時間にケーキなんて食べたら、私また太っちゃうね」
憎まれ口を返すと、六郎さんはまたしても大きな体を縮こまらせる。
「いや、それは!俺は全くそんなこと思ってなくて。早紀が気にしてるから…」
ゴニョゴニョとうるさい言い訳を繰り返す六郎さんに口に、私は大きめに切ったケーキを突っ込んだ。
きっと六郎さんも、その美味しさに自分の罪を認めたのだろう。私たちはしばらくキッチンで黙り込んで、それから少しだけ、笑った。
「六郎さん」
「ん?」
「夫婦なんだもん。ケーキ、一緒に食べよう」
「じゃあ、俺がコーヒー淹れる。それくらいは出来るはずだ」
そう。刺激も苦みも甘さも、この人と分け合う。そう決めたのは、私だ。
だから今夜は、このチョコレートケーキを2人で分け合って…一緒に菜奈の枕元にプレゼントを置こうと思う。
サンタクロースは、私のところにはもう来ない。
でも、隣には夫がいるし、サンタクロースになることができるのも素敵だ。
▶前回:「好きになれたらいいのに…」何度デートを重ねても年下男子にときめかない28歳女性の本音
▶1話目はこちら:大好きな彼に交際半年でフラレた女。未練がある女が、夜に足を運んだ場所
▶Next:1月5日 月曜更新予定
豪に対して特別な感情を抱き始めた、後輩の栞。2人の関係性は年末に変化して…?








この記事へのコメント
あの電話で双葉ちゃんに早紀との約束すっぽかした件を相談して提案されたのかもしれないね。
別に皆と同じようにうちのパパ言わなくてもいいと思う。面倒くさそうなママ友たち。 話の内容は良かった!今日だけでなくこれからも妻に優しく&山崎は自分で注げ!