大好きな人を待ち続けている犬の前で、しばらく沈黙しつづけた後。先に口を開いたのはハリーの方だった。
「双葉さん」
「…」
「僕、双葉さん、やっぱりほっておけないですね」
そう言いながらハリーはそっと私の手を包んできたけれど、私はそれを、やんわりと振り払った。
「ハリー、ごめん…」
「…」
まだ23歳なのに台湾から日本に来て、カタコトながらもエンジニアとして活躍できる、賢いハリーだ。私の言いたいことは、これだけで伝わる。
どれだけそうしていたのかわからないけれど、今度の沈黙は長かった。
孤独な心をありありと照らし出してしまう灯りの中で、こんな時間になっても押し流されそうな人の波の中で、私たちはしばらくずっと、黙って並んで銀色の簡易ベンチに腰掛けていた。
そして、もうすぐ23時という頃。ハリーは私をタクシーに乗せると…。
発車の間際に、いつもみたいに優しい、たどたどしい言葉でこう言ったのだ。
「双葉さん。じつは僕、さびしくなるから最後まで言えないでしたけど…」
「…?」
「つぎは、韓国に行くことになりました。これから会えないだけど…」
「え…」
「双葉さん、大好きでした。じゃあね」
「ハリー、うそ…っ」
「拜拜(バイバイ)」
信号が青になる。
私は、すごい勢いで走り出したタクシーを慌てて停めると、かじかむ指でどうにか初乗り料金を支払い、交差点に降り立つ。
だけど、間に合わなかった。ハリーの姿はあっという間に人波に流され、見つけることができなかった。恐れていたことは起きてしまった。
「ハリー!」
スマホを取り出すけれど、ボタンを押すことができない。
だって、決断できなかったのは私なのだ。ハリーを呼び止めたからといって、今の私には言える言葉が何もない。
スクランブル交差点では、1回の青信号で3,000人の人が行き交うと聞いたことがある。
そしてその交差点を渡る人々のほとんどが、きっともう二度と再び、交わることはない。
衝動的にタクシーを飛び降りた私が向かったのは、自宅ではなく神泉だった。
明るすぎる夜から逃れたつもりが、まだ渋谷にいる。未練がましい自分に嫌気がさす。
さらにはその目的地が、24時までやっている飲食店だというのだから笑うしかない。だけど、こんな人気店に予約もせずにフラッと入れたことには、なんだか巡り合わせめいたものを感じるところもある。
『テンキ』。
ビブグルマン獲得のフランス料理店シェフによる、天ぷらのお店。
洞窟のような空間と、ワインのラインナップが魅力のお店。
そして何より──、私がいつか向井さんと一緒に来ることを夢見たお店。
そんなお店に一人ぼっちで来ることが、今夜は必然だったように思えたのだ。
ひとりカウンター席で味わう海老の天ぷらは、信じられないほどに美味しかった。
薄力粉や米粉などを発酵させた衣は、カリカリでふわふわ。中はネットリとしたつみれになっていて、アメリケーヌソースとベアルネーズソースが絡みつく。
先ほどのビストロの分も、私はいくつもの天ぷらを注文していく。私の胃袋は、油なんかではもたれない。
怒涛の勢いで注文した天ぷらたちは、どれをとっても美味しくて、香ばしくて──。
だけど、この美味しさを伝えたい人が一体誰なのかは、どれだけ考えても今の私にはわからないのだった。
店員さんにおすすめされた白ワインとのマリアージュを楽しみながら、私は思う。
― 違う。どちらが好きか、じゃない。私は、1人でも平気なんだ。1人でいる夜が、好きなんだ。
市子だってそう言っていたじゃないか。恋なんていらない、自立したカッコイイ女。それが私。
その発想は天ぷらみたいにカラッとしていて、今夜の私の気分にマッチした。よくよく考えてみれば、深夜の天ぷら屋に1人で入れる強い女なんて、なかなかお目にはかかれないはずだ。
ついに結論に辿り着きかけた私は、もう一度海老の天ぷらを注文しようとする。
だけど…。
「すいません」と、店員さんを呼びかけた、その瞬間。
心の中とは裏腹に未練がましく膝の上に置いていたスマホが、激しく震えたのだ。もしかしたら、私の代わりに孤独を引き受けてくれたのかと思うくらいに。
時刻は、もうすぐ午前0時。
こんな時間に私に電話をかけてくる人なんて、思いつかない。私には誰もいない。
市子はさすがに寝ているし、ハリーだって…あれだけ明るい夜の中でも、見つけることができなかった。
「だれ…?」
恐る恐るスマホを手に取った私は、画面を確認するなり思わず息を呑む。
だって、画面に表示されていたのは────。
向井六郎。その人の名前だったから。
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深夜、双葉に電話をかけてきた早紀の夫・向井。その目的は…。







この記事へのコメント
第一、この男は家庭を顧みない最低夫なんだから。