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今夜、罪の味を Vol.6

「好きになれたらいいのに…」何度デートを重ねても年下男子にときめかない28歳女性の本音

有栖川匠

大好きな人を待ち続けている犬の前で、しばらく沈黙しつづけた後。先に口を開いたのはハリーの方だった。

「双葉さん」

「…」

「僕、双葉さん、やっぱりほっておけないですね」

そう言いながらハリーはそっと私の手を包んできたけれど、私はそれを、やんわりと振り払った。

「ハリー、ごめん…」

「…」

まだ23歳なのに台湾から日本に来て、カタコトながらもエンジニアとして活躍できる、賢いハリーだ。私の言いたいことは、これだけで伝わる。

どれだけそうしていたのかわからないけれど、今度の沈黙は長かった。

孤独な心をありありと照らし出してしまう灯りの中で、こんな時間になっても押し流されそうな人の波の中で、私たちはしばらくずっと、黙って並んで銀色の簡易ベンチに腰掛けていた。

そして、もうすぐ23時という頃。ハリーは私をタクシーに乗せると…。

発車の間際に、いつもみたいに優しい、たどたどしい言葉でこう言ったのだ。

「双葉さん。じつは僕、さびしくなるから最後まで言えないでしたけど…」

「…?」

「つぎは、韓国に行くことになりました。これから会えないだけど…」

「え…」

「双葉さん、大好きでした。じゃあね」

「ハリー、うそ…っ」

「拜拜(バイバイ)」

信号が青になる。

私は、すごい勢いで走り出したタクシーを慌てて停めると、かじかむ指でどうにか初乗り料金を支払い、交差点に降り立つ。

だけど、間に合わなかった。ハリーの姿はあっという間に人波に流され、見つけることができなかった。恐れていたことは起きてしまった。

「ハリー!」

スマホを取り出すけれど、ボタンを押すことができない。

だって、決断できなかったのは私なのだ。ハリーを呼び止めたからといって、今の私には言える言葉が何もない。

スクランブル交差点では、1回の青信号で3,000人の人が行き交うと聞いたことがある。

そしてその交差点を渡る人々のほとんどが、きっともう二度と再び、交わることはない。


衝動的にタクシーを飛び降りた私が向かったのは、自宅ではなく神泉だった。

明るすぎる夜から逃れたつもりが、まだ渋谷にいる。未練がましい自分に嫌気がさす。

さらにはその目的地が、24時までやっている飲食店だというのだから笑うしかない。だけど、こんな人気店に予約もせずにフラッと入れたことには、なんだか巡り合わせめいたものを感じるところもある。

『テンキ』

ビブグルマン獲得のフランス料理店シェフによる、天ぷらのお店。

洞窟のような空間と、ワインのラインナップが魅力のお店。

そして何より──、私がいつか向井さんと一緒に来ることを夢見たお店。

そんなお店に一人ぼっちで来ることが、今夜は必然だったように思えたのだ。


ひとりカウンター席で味わう海老の天ぷらは、信じられないほどに美味しかった。

薄力粉や米粉などを発酵させた衣は、カリカリでふわふわ。中はネットリとしたつみれになっていて、アメリケーヌソースとベアルネーズソースが絡みつく。

先ほどのビストロの分も、私はいくつもの天ぷらを注文していく。私の胃袋は、油なんかではもたれない。

怒涛の勢いで注文した天ぷらたちは、どれをとっても美味しくて、香ばしくて──。

だけど、この美味しさを伝えたい人が一体誰なのかは、どれだけ考えても今の私にはわからないのだった。

店員さんにおすすめされた白ワインとのマリアージュを楽しみながら、私は思う。

― 違う。どちらが好きか、じゃない。私は、1人でも平気なんだ。1人でいる夜が、好きなんだ。

市子だってそう言っていたじゃないか。恋なんていらない、自立したカッコイイ女。それが私。

その発想は天ぷらみたいにカラッとしていて、今夜の私の気分にマッチした。よくよく考えてみれば、深夜の天ぷら屋に1人で入れる強い女なんて、なかなかお目にはかかれないはずだ。

ついに結論に辿り着きかけた私は、もう一度海老の天ぷらを注文しようとする。

だけど…。

「すいません」と、店員さんを呼びかけた、その瞬間。

心の中とは裏腹に未練がましく膝の上に置いていたスマホが、激しく震えたのだ。もしかしたら、私の代わりに孤独を引き受けてくれたのかと思うくらいに。

時刻は、もうすぐ午前0時。

こんな時間に私に電話をかけてくる人なんて、思いつかない。私には誰もいない。

市子はさすがに寝ているし、ハリーだって…あれだけ明るい夜の中でも、見つけることができなかった。

「だれ…?」

恐る恐るスマホを手に取った私は、画面を確認するなり思わず息を呑む。

だって、画面に表示されていたのは────。

向井六郎。その人の名前だったから。


▶前回:23年間彼氏ナシの総合商社勤務の女。社内の忘年会を抜け出して、男の先輩と初めて向かった先は

▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由

▶Next:12月29日 月曜更新予定
深夜、双葉に電話をかけてきた早紀の夫・向井。その目的は…。

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この記事へのコメント

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No Name
ハリーが優し過ぎて、うじうじしてる双葉にイライラしてしまいました。いい加減向井への気持ちを切り替えないと。
第一、この男は家庭を顧みない最低夫なんだから。
2025/12/22 05:2620
No Name
向井の身勝手に振り回されない方がいいよ。「早紀なんかよりお前と結婚したかった」とか言われて(この男は言いそう) その気になっちゃダメ。 ハリーが気の毒でウルッときてしまった。双葉も彼の存在を蔑ろにし過ぎた、そういうのダメだよね。
2025/12/22 06:4112Comment Icon1
No Name
こうやって不倫が始まるんだね....
2025/12/22 05:1610
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今夜、罪の味を

有栖川匠

悲しい夜。眠れない夜。寝たくない夜。

さまざまな感情に飲み込まれそうになる夜にも、東京では美食がそばにいてくれる。

ディナータイムのあとに、自分を甘やかす“罪の味”。

今夜、あなたも味わってみませんか──?

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