煌々と明るい夜と人混みの中で、ハリーはニコニコと笑っている。
その発音がほんの少しだけたどたどしいのは、彼が外国人───台湾人だからだ。
「わぁ〜。双葉さん、怒ってもきれいです」
「そういうのいいから。てか、なんで待ち合わせいつもここなの?」
「だってそれは、僕のオフィスも家も渋谷です。すぐに、はやく、双葉さんに会えますから。
それに、このワンちゃんとってもかわいいと思いますね。大好きな人、ながいながいあいだ待ってる。ほっておけないです」
「はあ…まあいいんだけど、よくこの人混みの中で私のこと見つけられるよね。そんなことより、早くなんか食べに行こ」
5歳も年下の男の子に真正面から褒められるのが照れ臭くて、私はハリーに会うといつも、つい、こんなふうに憎まれ口を叩いてしまう。
だけどハリーは、そんな私の全くかわいくない態度など気にしない様子で、ひたすら褒めてくれる。
「双葉さんおなかいっぱいにしてあげたいですね〜」
そう言いながら自然な動作で、サッと私の手に持っていた荷物を代わりに持ってくれるのだ。
「自分で持てるから」と遠慮の言葉を口にするのは、2回目のデートでやめた。
あまり頑なに断るとハリーは、ものすごく悲しそうな顔をするから(それこそ、放っておけない子犬みたいに)。
だからハリーにこんなふうに荷物を持ってもらうのは、今日でおそらく11回目になるはずだ。
一回だけ、どういうことだかハリーのルームメイトだというインド人を紹介されたから、2人きりのデートという形でハリーと会うのは、10回目なのかもしれないけれど。
ハリーとの出会いは、マッチングアプリだ。
早紀と向井さんが結婚してすぐの頃、「このままではダメだ」という気持ちで登録だけしていたアプリ。
それをふと何かのきっかけで立ち上げて、何の気なしに右スワイプをしたら、そこにいた。
「台湾から日本に来ました。エンジニアしています。友達がいないですから、インターネットで探します。一緒においしいものを食べたいです」
その頃はたしか、週末を持て余した独身のアラサー女らしく趣味探しに足掻いていて…。
点心作りの料理教室に通っていたから、ハリーのプロフィールの“台湾”の部分に興味を持っただけだったのだと思う。
でも、とにかくそういうわけで、この夏頃から私とハリーは毎週のように一緒においしいものを食べに行く友達になった。
もっとも──本当に“友達”と言えるかどうかは微妙なところなのかもしれない。
ハリーはずっと、私のことを好きだと言ってくれている。
私はずっと、覚悟が決めきれずにはぐらかしてばかりいる。
だけど、ハリーは優しくて、一緒に食べるご飯は美味しくて、そばにいると穏やかな気持ちになれるから…ついついこうして会い続けてしまうのだ。
たとえ、心の中に他の人がいても。
そんな関係を“友情”と呼ぶ人は、きっとあんまりいないと思うから。
そう。ハリーは優しい。
一緒に食べるご飯は美味しくて、そばにいると穏やかな気持ちになれる──はずだった。いつもなら。
でも、今夜だけは違った。
連れていかれたフレンチビストロで、ハリーは何度私の顔を覗き込んだだろう?
「双葉さん、やっぱりおなか空いたじゃないですか?」
「きもちわるいですか?」
「びょうきだったら、双葉さんの家まで送りますから」
自分でも情けなくなるけれど、何度も心配させてしまうほど、今夜の私は食事が喉を通らなかった。
だってそのビストロは─────。
私が渋谷を好きになれない、3つ目の理由そのものだったのだ。
◆
新入社員だった頃。
早紀に「向井さんのことが好き」という秘密を伝えようとしたあの日は、反対に早紀から「向井さんから付き合おうって言われた」と相談を受けた日になった。
実際に2人が付き合いだした日。
当時は直属の上司だった向井さんとサシ飲みをしていたところに、途中から早紀がやってきて、最後は2人で帰る背中を見送った日。
それから、早紀のお腹に命が宿ったと聞かされた日…。
どの日もどの日も、いつだって、舞台はこの店だったのだ。
「俺は本当は、校了後って無性に天ぷら行きたくなるんだけどさぁ。早紀が『夜の揚げ物はもたれるから』って一緒に行ってくれないの。
だから、ビストロなら色々あるだろ?ふたりでこの店きては、俺だけベニエ食べてるってわけ」
そう愚痴を装った惚気を聞かされたのだって、一度や二度のことじゃない。
その度に「私だったら一緒に行けます」という言葉を心の中で飲み込んで、その度に少しずつ、渋谷は苦手な街になっていった。
当時渋谷で一人暮らしをしていた向井さんの部屋は、このビストロのすぐ裏だ。
今は結婚して勝どきに引っ越してしまったのだから、偶然一緒になるわけもない。
天ぷらを一緒に食べる相手だってそもそも探してすらおらず、だからこそ向井さんはこの店に通っていたのだ。早紀と、一緒にいるために。
向井さんと早紀が結婚して3年も経って、心からの幸せを願っている。
だけど、今夜偶然ここに来て…自分でもびっくりするほどの悲しみが、私の胃をあっという間にもたれさせてしまった。
ハリーの頼んだベニエは、たったの一口も食べられなかったのに。
あきらかに様子のおかしい私を気遣って、ハリーはお会計を済ませてくれる。
もう一度渋谷の駅前に戻ってくるまで、私とハリーは一言も言葉を交わさなかった。







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第一、この男は家庭を顧みない最低夫なんだから。