1年前、新卒でこの商社に入社したのは、父に勧められたからだ。
「栞ちゃんは、ここで働いたらいいんじゃないかな。パパがいいようにしておくから」
そう言われるがままに入社した会社が、世間的にはかなりの人気を誇る大手商社であることは、入社してから知った。
父の経営する会社が、重要取引先であることも。
勤務時間が9時5時の一般職の採用なんて、コネ入社以外にはないことも。
もっとちゃんと職場に馴染みたいという想いはある。
もう働き始めて1年も経つのだ。お客様のような立場からいい加減脱却したい。
だからこそ今日は珍しく、こうして部署の忘年会にも出席している。そして、「私だって会社の役に立ちたい」という一心で、一生懸命お料理を取り分けているのだ。
だけどそんな私のやる気なんて、きっと周りの人からすればありがた迷惑なのに違いない。
「あっ、もうすぐ夜10時だよ?栞ちゃん急いで帰った方がいいんじゃない!?」
「あ、でも…」
「そうだよ。夜の新宿なんて危ないし。だって栞ちゃん、門限9時って前に言ってたでしょ」
「それは、そうなんですけど…」
入社した時、右も左もわからないまま色々と話してしまったことを後悔してももう遅い。
私の世間知らず丸出しな日常は、トンデモお嬢様エピソードとしてあっというまに笑い話になってしまった。
部署の中ではすっかり知れ渡ってしまっているし、それはつまり、私がある種の“腫れ物”でもあるということだ。
もしも私の帰りが遅くなったことで、何かあったら…。誰もそんな出来事の当事者にはなりたくないだろう。
役に立てないのならばせめて、迷惑だけはかけないようにしたい。分かっている私は、独りよがりなワガママを飲み込む。
「…はい。じゃあお言葉に甘えて、今夜はお先に失礼します…」
「うん、気をつけて帰ってねー!」
「お疲れさまー!」
そう言って私を見送る人たちの顔がどことなくホッとして見えるのは、被害妄想だろうか?
とにかく、私はいつものように微笑みを浮かべながら、会釈をして忘年会会場を後にするのだった。
店を出ると目の前に広がっているのは、22時の新宿の街だ。
さっき会社の人にからかわれたように、通常門限が21時の私にとっては馴染みのない光景だ。であると同時に、少し寂しい気持ちにもなる。
「今日は忘年会だから、帰りがすごく遅くなっちゃうかも!って、ちゃんと家族に言ってきたのになぁ…」
こんな調子で私は、ちゃんとした大人になれるのだろうか。
今はまだ社会人1年目だけれど、いつかは社会で役に立てる人間になりたいと思っている。
父に言われるがままに入った会社だけれど、腰掛けじゃなくて、ちゃんと仕事ができる女性になりたいという夢を抱き始めている。
それから…。
実はもうひとつ、密かに夢見ていることがあるのだ。
それは、素敵な男性と出会って恋をすること。
周りの親族を見ていても、父の行動パターン的にも、きっとあと2、3年もすれば私は、お見合いなどを始めなくてはならないはずだ。
だけどできれば私は、自由に恋愛がしてみたい。ドキドキしたり、ときめいたり、人を大好きになってみたい。
幼稚園から大学までの女子一貫校で育ち、23歳になる今も、彼氏ひとりいたことがない。
そんな私は、社会の役に立つ女性になりたいと思うよりもずっとずっと前から、「素敵な男性と出会って恋がしたい」という夢を密かに持ち続けている。
「あーあ、みんないいなぁ。羨ましい」
雑踏の中でひとり、そんなことをつぶやく。
夜の新宿を歩く人々の中にはカップルも多く(というか、ほとんどがカップルで)、鳥籠の鳥のような気分の私からしてみると、心の底から羨ましく感じたから。
だけど、誰にともなくつぶやいたその独り言は、ある人の耳にしっかり入ってしまっていた。
「なにが羨ましいの?」
ぎょっとして後ろを振り向く。
「!?」
そこに立っていたのは、部署の先輩…。あまり話したことはないけれど、みんなから「豪さん」と呼ばれている人だったのだ。
「ご、豪さん。いや、羨ましいっていうのは、あの…あれです!」
まさか「カップルが羨ましい」とは言えない私は、慌ててラーメン屋さんの看板を指差す。
「…ラーメンが?お腹空いてるの?」
「いえ、あの…」
― しまった。これはこれで恥ずかしい!
どうにか誤魔化さなくては、と思った私は、苦し紛れの策で反対に豪さんに質問する。
「豪さんは、どうしたんですか?忘年会、まだまだ続いてますよね」
「いや…なんか、もういいかなーって。こっそり抜けてきちゃった」
「もういいかなって、そんな」
「や、今のはダメだな。みんなには内緒ね。実は他に行きたい店があってさ」
「内緒ね」と言った豪さんはちょっと茶目っ気のある感じで、まるで小さな子供みたいだ。いつもの落ち着いた大人っぽい感じとは印象が違い、意外性を感じる。
「へぇ、どんなお店ですか?」
その親しみやすい雰囲気につい会話を深掘りしてしまうと、次の瞬間。豪さんは少しためらいがちに聞いてくるのだった。
「そっか。栞ちゃん、お腹空いてるんだよね。…もし、少し歩く元気あったら、一緒に来る?」







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