新宿の現場から上がって三軒茶屋の自分の部屋に帰ってきた後も、私は眠りにつくことができなかった。
ベッドの中で手にしているのは、明日のイベントの進行表だ。
何度も目を通したから内容は全て頭に入っている。だけど、今はこうすることくらいしかできないから。
熱いシャワーを浴びたのにまだ指先が氷のように冷たいのは、寒空の下で体が冷え切ってしまったのだけが理由じゃないことは、自分が一番よく分かっていた。
「あの子、新しい彼女なのかな…」
1人の部屋で呟いても、答えは誰も教えてくれない。
またふと、双葉ちゃんと過ごした西麻布の夜のことが頭に浮かんだ。「…間に合ううちにさ」と寂しそうに呟いた双葉ちゃんは、一体どんな恋を逃してしまったのだろう。
「そうだよね。私がグズグズしている間にも、時間はどんどん過ぎていくんだもんね」
しばらく考え込んだ後、私はゆっくりと進行表をスマホに持ち替えた。
そして、ベッドから起き上がると、部屋着にしているロンハーマンのニットのセットアップのまま上着を羽織る。
「行くしかない」
そうして自分を奮い立たせるように部屋を飛び出して向かったのは、ちょっと前の自分なら考えられないような場所だ。
「すみません、1人なんですけど…」
「はい、こちらのお席へどうぞ」
無事に席に案内されたことで、思わず胸を撫で下ろす。
私の住むマンションから徒歩5分の場所にある、『一軒茶屋きんざざ』。
先ほどベッドの中で検索し、グルメサイトを見ただけで勢いで来てしまったけれど、深夜2時まで開いているというのは本当のようだった。
足を踏み入れるのは初めてだったけれど、おでんとお茶のお店なのだという。
― おでんなら、夜中に食べてもそんなに太らないよね。
なんとなくソワソワとする気持ちを落ち着かせながら、おでんの盛り合わせと、お茶割りではない台湾茶の凍頂烏龍茶を注文した。
夜食とは縁のない生活を送っていた私が、深夜にグルメサイトを見ておでんを食べに来るだなんて、自分でも信じられない。
だけど、ひとりでデザートを食べたあの夜も、双葉ちゃんと一緒にお好み焼きを食べたあの夜も、なぜだか、みじめな気持ちにはならずにすんだのだ。
他の女の子と、夜の新宿で楽しげに歩く豪くん。
そんなあまりにも悲しすぎる光景を目にしてしまった今夜。眠ってしまえないのなら、することは一つ。
夜中に美味しいものを食べる…という心地よい罪に、どっぷり浸ってしまうことだろう。
「はい、どうぞ」
偶然とはいえ、おでんをチョイスしたことは正解だったのかもしれない。空腹のままモヤモヤと過ごす暇もなく、じっくりと煮込まれたおでんはすぐに提供された。
「3種の盛り合わせ」として目の前に出されたのは、定番の大根。ちょっとめずらしいだし巻き玉子。そして、自家製の鶏だんご。
大根はこっくりと茶色みを帯びるほど味が染みていて、だし巻き卵はひたすらに優しい。しょうががたっぷり使われた鶏だんごも個性的だ。
― おいしい…!
急須で入れてもらった黄金色の凍頂烏龍茶も、日頃ペットボトルで飲むウーロン茶と同じものだとは思えないほどの香り高さで、食欲を増進してくれる。
気がつくと私はあっという間に、3品もあったおでんを片付けてしまっていた。
熱いシャワーでも温めきれなかった指先が、ほのかに桃色になっている。やっぱり体の中から美味しいものであたためるというのは、みじめな気持ちとは最も遠いところにある行為なのだ。
冷たい涙を流すばかりでは、心はちっとも救われない。
眠れない夜に必要なのは、涙じゃなくて、熱いダシ。
そんなふうに考えると、メソメソと涙に暮れてばかりのこの1ヶ月が少しだけ、馬鹿馬鹿しく感じられた。
― あの子、新しい彼女なのかな。
さきほど1人の部屋で呟いた言葉を、もう一度、心の中でつぶやく。
― もしかして、私と付き合ってる頃から?
不穏な考えが湧いたものの、すぐそばから「ううん、豪くんはそんな人じゃない」と打ち消すことができたのも、きっと熱いダシが心をじかに温めてくれたからなのだろう。
幸い心だけでなく、指先もすっかり温まってよく動く。
ずっと出すことができなかった勇気も、今なら出せるような気がした。…あと、1、2品の気になるタネを味見したら。
「すみません、追加で注文いいですか。煮卵と…」
もう少しだけ温まったら、夜の勢いに任せて指先を動かしてみようと、私は決意する。
このままでは終われない。
辛い恋を感じさせる双葉ちゃんの横顔は、それでもすごく綺麗だったけれど…やっぱりすごく、苦しそうだったから。
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市子と別れた豪。別れの後、豪と新たに出会った女性の存在







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