突然の名指しにメグはグラスを持とうとしていた手を、ルビーは2つ目の稲荷寿司に伸ばした指を、それぞれ止めた。
「やっぱり、その話ですよね」
と、メグがふぅ~と呼吸を整えるように息を吐き出してから続けた。
「光江さんがお酒をおごってくれるっていうの、怪しいと思ったんですよ」
「アタシをケチなババア扱いする気かい?」
「だって、おごられてる光景しか見たことないですもん。Sneetで、“西麻布の女帝に一杯おごる”っていうのが、光江さんに話を聞いてもらえる、お悩み相談料のようなものなんですよね?」
メグがいたずらっぽく笑うと、光江も口角を片方だけ上げた。確かに——Sneetで光江に相談にのってもらいたければ、光江が指定した酒を一杯おごること。10代の恋のお悩みから、国を動かす極秘情報まで、これが一律のルールになっている。
けれど、ともみが見ている限り、光江は相手に合わせて酒を選んでいる。相手が若い大学生であれば1,000円台のお手頃なカクテルを。裕福な社長であれば遠慮なく、希少なワインをグラスで飲むために開けたりする。
— まあ会えたところで、光江さんの気が向かなければ相手にもされず、帰っていく人も多いんだけど。
光江は携帯電話を持たず、Sneetに現れるペースも決まっているわけではない。待ち伏せという作戦に出たとしても、そんな客がいる時には不思議と絶対に現れない。(たぶんミチが光江に知らせている)
つまり偶然Sneetで遭遇するしかその機会を得る方法はない。だから、“西麻布の女帝”に悩み相談ができた人の未来は安泰、夢が叶い生涯の幸せが約束される——などという都市伝説めいたものが出回るほどの希少価値があるのだ。
ともみでさえ恐れ多くて、そうそう頼めない“女帝の相談室”。でも久しぶりに相談したいことがあるんだけどな…などと思っていると、「そういえば、ともみ」と光江に名を呼ばれた。
「アンタついに、友坂んとこの坊ちゃんとうまく行ったんだって?」
友坂んとこの坊ちゃん——つまり大輝の父親と光江は、大輝が生まれる遥か前からのつき合いらしく、Sneetに通い始めて何年も経った今も、光江は大輝を茶化すことが楽しいのか、その名を正しく呼ぶことがあまりない。
「はい、なんとか」
「残念だねぇ。アタシはいっそ、ミチとくっついてくれたほうが面白かったんだけど。ミチもアンタのことは気に入ってるみたいだしね」
突拍子もない!と驚き慌てたともみはメグを見た。メグはニコニコとその表情を崩してはいなかったけれど、先日見た2人——メグとミチの間に流れる空気はどこか特別で、その関係が過去のものだとは思えなかったから。
「あれ?まさか今日は、姑がお嫁さんを選びますよ、って話なの?」
空気を読めないというより読まないルビーの悪びれない声を、光江がギロリと睨む。
「誰が姑だよ。そもそもアタシは誰の母親でもないだろうが」
でもまぁ…と、光江はメグとともみを交互に見てから続けた。
「ミチを幸せにしてくれる嫁はどっちだと聞かれたら、間違いなくともみだと言うだろうね。
メグ、アンタじゃミチを幸せにできないよ、なのに今さら、どういうつもりで捨てた男に頼ってるのかね。アンタに捨てられたあと、あの子がどうなったのか——今まで知ろうともしなかったくせに」
「どうなった、って…ミチに何かあったんですか?」
メグの顔がわかりやすく強張ったが、光江はその質問には答えず、ふん、と鼻を鳴らしてから続けた。
「アタシはいずれ、あの店をミチに譲る。きっとそう遠くない未来にね」
「え?光江さん、引退しちゃうの?」
間髪入れずにそう聞いたルビーの手には3つ目の稲荷寿司。そして光江の返事を待たずに口の中に放り込んだ。よくもまあ、このシリアスな会話の最中に食べる気になれるものだと、もぐもぐと飲み込んでいくルビーの強靭なメンタルに敬服しながら、ともみは“西麻布の女帝”の引退予告に動揺していた。
— 光江さんはこの街に…いつまでもいてくれるものだと、思いこんでた。
不安がよぎったともみを安心させるかのように、光江は、「今すぐってことじゃないよ」と少しだけ微笑んだ。
「ただ、流石のアタシも不老不死ってわけにはいかないし、引き際を見極めて、潔く手放さなければ、大切な場所を守れないのさ。今、ミチに受け渡す準備を少しずつ始めてるところなんだ。だからメグ…アタシの大事な後継者をいつまでも都合のいい男として扱うつもりなら——それなりの覚悟はしてもらわないとね」







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リリアの件を解決させてミチと結婚するんじゃダメなんだろうか🥹