誕生日祝いという名目で彼が連れていってくれたのは、箱根の山あいにあるラグジュアリーな宿。
客室露天風呂からは緑に包まれた渓谷が望め、夕食は地元の旬を贅沢に盛り込んだ会席料理。ひとつひとつが繊細で、都内のどんなレストランよりも心に沁みた。
「ねぇ、颯斗。ちょっと奮発しすぎじゃない?ここ、素敵すぎる…」
私が感動していると、「たまにはカッコつけさせて」と颯斗は微笑む。
幸せだった。
一度は連絡を断ち、お別れをした颯斗が目の前で笑っていることが。
けれど、その夜の出来事はそれ以上の衝撃だった。
食後。私たちは二度目の温泉に入り、浴衣姿でテラスの椅子に並んで腰掛けた。
窓を少し開けると、控えめに虫の声が響き、涼しい夜風が熱った頬にあたる。
「ねぇ、ビール飲む?もうお腹いっぱいかな?」
私が部屋の冷蔵庫を開けながら聞くと、颯斗はそれには答えず、「まりか、あのさ」と私の名前を呼んだ。
真剣な声色に振り向くと、颯斗がこちらをまっすぐに見ていた。
「結婚してください」
急な申し出に一瞬息が止まり、私は冷蔵庫の前で変な体勢のまま固まってしまった。
ちゃんと付き合いたい、とは聞いていた。結婚する気もあることも確認した。けれど、まさか今日プロポーズされるなんて、想像すらしていなかった。
「……本気なの?」
「うん。離れてみて、気づいたんだよ。僕は自分で思っているよりもずっと、まりかのことが大好きなんだって。他の子と飲みに行ったりもしたんだけどさ、ぜっんぜん面白くないの。あなたが魅力的すぎるせいでね」
颯斗の29歳という年齢を忘れるほどの、真剣な表情に思わず釘付けになる。
「まりかはさ、たぶんひとりでも勝手に幸せになれるタイプだと思うんだよ。男に幸せにしてもらおうなんて、思わないカッコイイ女でもあるし」
「そんなことないよ…」
私が咄嗟に否定すると、颯斗は私のそばに来て頭を撫でた。
「うん、それもわかってる。カッコいいまりかでも泣きたい夜はあるってこと。だから、その時にそばに誰かがいたら、悲しみや辛さを分け合うことができるでしょ?その役割を僕が担いたいし、頑張っているまりかを支えてあげたいんだよ」
「ありがとう。そんなふうに言ってくれて。颯斗、なんだか変わったね」
颯斗からこんな言葉が聞けるとは思っていなかった。これまでは、楽しい時だけを共有する互いに都合のいい相手だったから。
「私も颯斗のことも好きだよ。だから、ちゃんと考えなきゃなって思ってて、今すぐに答えは出せない…ごめんね」
今の私にはそう言うのが精一杯で、颯斗は苦笑いを浮かべ「わかった」とだけ言って、私を抱き寄せたのだった。







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