ホテルのバーに2席の予約を入れたのは大輝だった。
「ともみ、終わったら連絡してね。迎えにくるから。でもお2人とも、オレのことは気にせず、ごゆっくり」
そう微笑むと大輝は、パーティーの関係者に挨拶を済ませてくる、と、ともみの額にキスを落としてから、キョウコとともみから離れて行った。
少しだけ緊張し始めたともみを、キョウコが、「じゃあ行きましょうか」と先導し、2人で40階まで上がると、「友坂さま、2名様ですね」と大輝の苗字で、窓際のソファー席に案内された。
キョウコの注文は、桜の季節の終わりを表現したという、ドン・フリオというテキーラとドライシェリーが使われた、その日のお薦めのオリジナルカクテルだった。
「このテキーラは飲んだことないから、飲んでみたい」と、迷わず注文したキョウコのことを、
— 臆さない人。
と、推測しながらともみも同じものを頼んだ。
お薦めを頼む客の中には、酒に詳しくなくて自分で決められないから、という人もいるけれど、キョウコの注文の仕方は、知らないからこそ飲んでみたい、という好奇心に動かされていた。客商売をしていると気づくが、知らないものにはトライしたくない、と臆してしまう人の方が、多いのだ。
お出しできるまでに、少しお時間を頂くことになります、と申し訳なさそうに去っていくサービスの女性を見送りながら、ほぼ満席の金曜19時過ぎの店内を見渡す。
天井まで突き抜けた壁一面の窓からは、以前は東京タワーが見えていたはずだけれど今は見えない。麻布台ヒルズが建っちゃったからだったっけ…などと、ともみがぼんやり思い浮かべた時、キョウコが、ふっと笑った。
「友坂くんに紹介したいと言われた女の子が、まさかともみさんだったなんて。私の映画に出てくれた時は、お名前が違ったから、最初は気づかなかったけど」
「はい、本名を使って芸能活動をすることを、母が良しとしなかったので」
ともみは、子役でデビューしたときは、柿本アン、という芸名で、アイドルになってからはそれをアルファベットにしたAN、を使っていた。柿本は、母の旧姓だった。
大輝とは呼ばず、友坂と苗字を呼んだのは自分への気遣いなのだろうかと思いながら、ともみはキョウコに、思い切って聞いてみることにした。
「大輝…さんは、今日のことを――門倉先生と私が会うという段取りを、どのように先生にお願いしたいんでしょうか」
ここ数日、大輝から呼び捨てにするようにとしつこく言われ続けたせいで、思わずここでも呼び捨てにしそうになったけれど、なんとか、さん、を足して聞いたともみに、キョウコは淀みなく言った。
「大切にしたい恋人ができた。その女性がキョウコさんと僕のことを知りたいと言っています。彼女に隠しごとをしたくないし、不安を取り除いてあげたいから、彼女に会ってもらうことはできますか、って」
大輝という男性が、何かと規格外だということは知ってたけれど、包み隠さないにもほどがあると、戸惑うともみにキョウコが続けた。
「友坂くんは、あの通り、どこか本能的な人だから。そこに驚くけれど、だからこそ彼が魅力的だということも、ともみさんも、私もよくわかっている。…わよね」
ともみが頷くと、キョウコはまた、静かに微笑む。
「ともみさんが私に会いたいと言ってくれたということは、私が友坂くんの恋人だったことも、私に夫がいることも、ご存じということよね」
ともみはまた小さく頷いた。
「まず、改めてきちんと私の口からお伝えすべきことだと思うのだけれど、私と友坂くんは、もう完全に終わってる。それは本当に信じてね。
だからこそ、私はあなたに会ってみたいと思った。あなたがもし私に聞きたいことがあるのなら、何でも正直に答えさせてもらおうと思ったの。それが私が彼にできるせめてもの……最後の恩返しだから」
キョウコの言葉は穏やかだったけれど——穏やかだったからこそ、ともみの胸はドクンと跳ねた。そして気づいてしまった。
― 先生は、きっとまだ…
大輝を想っているのだ、と。
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ともみとキョウコが2人きりで話し、明らかになった真実とは?
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