「どうしよう…終わらない」
午後イチのミーティングは無事に終えたものの、私の目は時計とPC画面を行き来していた。
今日中に仕上げなければならない資料があるのに、よりによってシステムトラブル。後輩をチラッと見るが、彼女も仕事が山積みで頼めるような雰囲気ではない。
「はぁ…」
定時で切り上げられないことは確実となり、私は頭を抱えた。
今朝の美桜の顔が、頭に浮かぶ。
寂しい思いをさせてしまっているのに、毎日頑張っている美桜。今日は早く行くと約束もしてしまった。胸がギュッと締めつけられる。
『由里子:システムトラブルで仕事が終わらない。美桜のお迎えお願いできる?』
私は祈るような気持ちで、夫の雅史にLINEを送った。
『雅史:え〜今日、飲み会だって言ったじゃん。美桜もママが行った方が喜ぶよ。なんとかなんないの?』
その返信を見た瞬間、鼓膜がキーンとするようなストレスを感じ、思わずスマホを握りしめた指に力が入る。
美桜が私の方が好きなのは、あんたが美桜の世話をしないからだよ…と打ちたいのを我慢して、『来週はいつでも飲みに行っていいから。お願い』と送信すると、雅史から了承の返事が来る。
「よかった…」
その後システムは復旧し、私は19時すぎに会社を出た。しかし、夕飯のことを雅史に連絡しているのに返事がない。
美桜がお腹を空かせていたら可哀想だ。電車から降りると駆け足でスーパーに寄り、適当に総菜を買って帰宅した。
「ごめんね、遅くなって!」とリビングのドアを開けると、雅史と美桜は素麺を食べていた。
「あ…ごはん食べてたんだ。美桜、唐揚げ食べるよね?すぐ温めるね」
美桜に聞くが、娘は顔をしかめた。
「ママのじゃない唐揚げ、おいしくない。いらない」
「由里子、これ酸化した油の臭いがするよ。体に悪いし。やめときな」と雅史も冷たく言い放ち、追加で素麺を茹で始めた。
「……」
その瞬間、涙が込み上げてきた。美桜に見られたくないと思い、とっさにトイレに駆け込む。
ドアを閉めた瞬間、声を殺して泣いた。雅史への怒りと、悔しさ、情けなさ。そういった負の感情が一気に溢れて止まらなかった。
◆
21時。
美桜が寝た後、スマホをチェックすると成瀬からメッセージが来ていた。
『成瀬学:今日は大丈夫だった?』
その一言に救われた気がして、昼間のお礼を伝える。
『由里子:チョコありがとうございました。糖分が足りてなかったので、助かりました。笑』
すると、すぐに既読になる。
『成瀬学:アルコールは足りてる?ワイン飲めるっけ』
そのメッセージに返信しながら私は、出かける準備をしていた。
「ごめん。トラブル対応で会社に戻らなくちゃで」
「マジで?由里子の会社、ほんとクソだな。可哀想に。別に美桜が寝てるならいいよ」
私は「ありがとう」と心にもない礼を言う。
夫に対して腹が立っても、仕事と子育てに追われて、最近は真っ正面から向き合う気力がない。話し合いをするのもケンカするのも疲れるから、こういうときはなんとなくやり過ごすに限る。
誰かと飲んで気分を晴らしたい気分だったからちょうど良かった。相手が成瀬だからなわけではない、と自分に訳のわからない言い訳をして、タクシーで代々木上原の小さなワインバーへ向かった。
店に入ると、キャンドルの灯りが揺れるカウンターで、成瀬がグラスを片手に待っていた。
「来ちゃいました」
「うん、びっくりした。ほんとに来ると思わなかったから」
私はちょっと緊張しながらも、成瀬と同じローヌのシラーをグラスで注文し、一口含む。
スパイシーだけれど、どこかブラックベリーのような果実みのある香りが喉を通っていく。
「大変だったんだろ?今日。もしかして、家でも大変だった?」
「え…バレてます?」
微笑む成瀬の目が、いつもより優しく見える。こんなふうに、ふたりで飲むのは初めてなのに、なんだか心地がよかった。
「もしかして、もう聞いた?俺の離婚のこと」
「そうなんですか?どうして…」
「奥さん若かったじゃん?しかも美人。たぶん、もっと他にいい男を見つけちゃったみたいでさ。子どももいなかったから、すんなり合意」
そう言ってワイングラスを持ち上げる横顔は、なんだか淋しそうだ。
確かに、世の中には成瀬よりもイケてて、稼いでいる男性はたくさんいるかもしれない。
― でも、結婚ってそれだけじゃないのに。
「吉村のところはどうなの?旦那さんとは上手くいってる?」
そう聞かれた私は「すみません、ミックスナッツとチョコレートください」とバーテンダーに言って誤魔化した。
「はは、そんなにチョコ好きだったの。それじゃあ…まずは、競合他社の新サービスの話でもしますか」と言って成瀬は笑った。
言いたくないことは言わなくていい。そう言ってもらえた気がして、心が楽になる。
今日のストレスと、この状況からくる緊張を、私はひたすらワインで流し込んだ。すると、残ったのはふわふわとした心地よい酔いと、「母」でも「妻」でもない、ただの私だった。
最悪な1日を、成瀬が救ってくれた。
解放感からか、私は「もう一杯だけ飲みません?」と成瀬に提案していた。
▶前回:37歳専業主婦、子どもを預けて夜遊びへ。21時の麻布十番で見た“ある真実”とは
▶1話目はこちら:「男の人ってズルい…」結婚して子どもができても、生活が全然変わらない
▶Next:9月17日 水曜更新予定
まりかは颯斗との関係に変化が…
この記事へのコメント
何も食べてないと思いお惣菜買って帰ったら素麺食べてるのかよ vs せっかく俺が素麺を茹でて二人で食べてたのにわざわざ酸化した油の臭いするから揚げ出すなよ
仕事と嘘ついて家出てきてほろ酔いで帰宅したら疑われそうだけど...
余計な描写が多いし、文章も何故だかとても読み疲れる。