メグ——柏崎メグは、反射的にその体を抱きかかえていたミチの胸板や二の腕をペタペタと触ったあと、ミチの頬…目の下の傷あたりにチュッとキスをしてから、ぴょんっと飛び降りた。
そして自分たちに注がれている他の客の視線に気づくと「お騒がせしてごめんなさ~い」と、大きな声でぺこりと頭を下げた。
その声の柔らかさのせいなのか、騒がしいのに不思議と煩わしさは感じない。数組の客たちもイヤな顔はしておらず、気にしていないという意思表示の微笑みをメグに返している。
「ミチ、ジントニック作って♡」
ミチの目の前のカウンター席に陣取り、身を乗り出すようにして注文したメグに、ミチはようやく我に返った様子で、大きな溜息をついてから氷を削り始めた。
「ミチのジントニック飲むのって何年ぶりだろ」
「…5年」
「やだ、即答じゃん♡やっぱり、私愛されてる♡」
「記憶力がいいだけだ」
「え~私がミチにとって“忘れられない女”だからでしょ~」
カウンターに両腕で頬杖をつき、ニコニコと無邪気な笑顔を自分に向けて来るメグに、ミチは呆れ顔になり、また溜息をついた。それでも——ともみがこの光景を見ていたら、2人の関係が特別なものだとすぐに分かっただろう。
呆れ顔とはいえ、メグへ向けられたその瞳によぎった温かさが…これまでの誰に向けられたものとも違っていたから。
◆
「あ~最高~♡世界中で飲んできたけど、ミチのジントニックが世界で一番美味しいよ」
「それはどうも」
喉が渇いていたのか、ごくごくと勢いよく流し込んだメグに、ミチは「ゆっくり飲めよ」と氷水とオリーブを出した。
「さらに進化したって感じもするけど、やっぱりこの味が私のアオハルだなぁ。胸がキュっとなる」
「アオハルって…酒に青春はないだろ」
「え~だって私たちが付き合ってたときの味だよ?散々味見してあげたじゃん」
「そんな昔のこと覚えてないな」
「ウソばっかり。さっき記憶力いいっていったじゃん。っていうか、私たちが20歳の頃の話だから——げ、もう15年も経つのか。マジで一瞬だったと思わない?」
メグに問われたミチが、苦笑いのように唇を歪めた。
「そりゃメグが、落ち着きがないからだろ。オレにとって15年はちゃんと15年だったし、それなりに年もとって…変わったよ」
「え~人を単純バカにみたいに言わないでよ。でも確かにミチは、なんかいい感じに枯れて、ますますいい男になったよ。昔はギッラギラしてたもんねぇ。周りは敵だらけって感じの尖り方してさ」
メグのからかう視線から逃げるように「で、次はいつ出国なんだよ?」と話題を変えたミチを、「あ、ごまかした~」と屈託なく笑うメグは、世界中を飛び回るジャーナリスト兼カメラマンだ。
紛争地域や、女性の自由が奪われている国々で起きている問題を——映像、写真、そして文章を駆使して伝える彼女の取材力は高く評価され、国際的な賞を受けたこともある。
― 変わらないな。
ベリーショートの小さな頭、少女のように華奢な体、ひまわりのような日焼けした笑顔。35歳になったはずの今でも、すべてがあの頃のメグと変わらないように見えてしまう。
グラスを持つその細い手首に——自分が贈った、細いゴールドのチェーンブレスレットが、今もつけられていることには、ミチは気づかないふりをした。
「一週間前に日本に帰ってきたんだけどさ。しばらく日本で休もうと思って」
「しばらくって、どれくらいだよ」
「うーん、決めてない。でももしかしたら、ず~っといるかも。住む家も借りちゃったし」
「は?」
「は?って、なにそのリアクション」
相変わらず言葉に愛想が足りないね、とメグは笑ったが、ミチは眉をよせた。
「…どうした?」
「別に、どうもしないよ?ただちょっと疲れただけ」
― 強がるクセも変わらず、か。
グラスについた水滴を指でぬぐうふりをして、ミチから視線をそらしたメグに、ミチは何かがあったと確信した。
― だいぶ弱ってるな。
心配で胸がうずくこの感覚が、昔の恋人へのただの情なのか、それとも…と思ってしまった自分に、ミチはうんざりし、舌打ちをしたい気分になった。
同じ歳のメグとは、お互いが20歳の時にSneetの客と店員という立場で出会い、恋人同士になり、26歳の時に別れた。
当時のメグは、東京の大手出版社で政治記者として働いていたが、上司とある大臣の癒着を目の当たりにし、マスコミや報道の在り方に疑問を抱き始めていた。
ちょうどその頃、メグの運命を変える出来事が起こってしまう。日本で開催された、著名なアメリカ人ジャーナリストの講演会に参加したのだ。
自らの命を顧みず、世界の紛争地域を取材し続けている彼の姿勢に、メグはいたく感銘を受け、彼が日本を発ってからも連絡を取り合うようになり、教えを乞う関係になっていった。
そして、その出会いから半年程過ぎた頃——ジャーナリストからアシスタントとして一緒に世界を回らないかという提案を受けたメグは、ミチに別れを切りだしたのだ。
「私はミチが、本当に大好きだから…現地で辛くなったときに、ミチが待ってくれている場所に逃げて帰ってきてしまうかもしれない。だから退路を断って日本を出たい。大好きだからこそさよならしたいの。一方的で、ごめん」
そんな決意をメグから伝えられたのは、今から9年前の6月7日のことだった。ミチがその日付を忘れられないのは、ただ記憶力が良いからというわけではなく、その日がメグの誕生日のちょうど1か月前だったことと——結婚を前提とした同棲の話を切りだすつもりだったからだ。
新聞社勤務のメグと、Sneetで働くミチでは、そもそもの勤務時間が真逆。メグが多忙を極めてSneetを訪れることもできなくなってからは、顔を見ることさえままならなくなっていた。それなら同じ家に帰ることにすればいいと、ミチは同棲を考え始めていた。
9年前の6月7日は、約2か月ぶりのデートの日だった。
メグは毎年、自分の誕生日でさえ仕事を優先していて、その年も、誕生日当日は出張で会えないことが決まっていた。だからミチは、1ヶ月前で気が早いけど…と、誕生日プレゼントのブレスレットを買って待ち合わせのレストランに向かった。
ミチが予約したのは、光江に紹介してもらった、当時できたばかりの西麻布のビストロだった。久しぶりのデートは穏やかに始まった。けれど、メグの近況報告というマシンガントークに相槌をうち続けるうちに、ミチはメグの様子がおかしいことに気がついた。
「メグ、どうした?」
「なにが?」
「なんか、テンションが高すぎるなって思って。イヤな事でもあった?」
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