「もしもし…」
スマホの向こうから聞こえてくる、掠れたような甘い声。
「もしもし、ごめん遅くなって。まだ起きてた?」
「もちろん起きてたよぉ。遅くまでお仕事お疲れさま、正輝くん」
電話の相手は、萌香だ。
付き合って4ヶ月。会えない日は毎日、こうして寝る前に電話する約束になっている。
俺の日常は、冗談抜きに朝から晩まで仕事しかない。
そんなに毎日話すことなんてないけどな…と密かに思っているのだけれど、そんなことはもちろん萌香に伝える気はなかった。
寂しがり屋の萌香は、毎日連絡してあげないと拗ねてしまう。
そんな萌香のことを好きなのだから、これは彼氏としての嬉しい責務というものなのだ。
一方の萌香は、よくまあここまで話題が尽きないものだと感心してしまうくらいだ。
「それでね、職場のBA(ビューティーアドバイザー)さんが…」
「今日のランチで行ったお店がね…」
「今見てる恋愛リアリティショーなんだけど、正輝くんも絶対見た方がいいよ!」
日常のささやかな出来事を本当に楽しそうに話してくれる萌香は、すごくかわいい。
仕事で疲れている時は正直、一刻も早く寝たい…と思う時もある。
それでもこうして毎日電話する習慣が続いているのは、俺だって萌香の声を聞くと嬉しいし、ホッとするからなのだった。
だけど…。
どんな話だって、萌香が楽しそうに笑ってくれるのならいくらでも付き合える自信があるけれど、ひとつだけ困ったことがあるとすれば、こんなふうに聞かれる時だろうか。
「ねえ、正輝くんは今日はどんな1日だったの?お仕事の話しかないっていうけど、それでも聞けたら嬉しいよ。悩みとかあったら私に話して」
「俺の話かぁ…」
正直、仕事の悩みならいくらでもある。
特殊なサプライチェーン系のプロジェクトにアサインされたものの、専門用語や業界の常識を学ぶ時間があまりにも限られていること。
お客様に対して独自のバリューを出せるような努力をしているけれど、先方はJTCなこともありシニア層へシステム導入をすることにITリテラシーの壁が高いこと。
使用設計やマニュアル制作を任せているスタッフのアナリスト、コンサルタントの育成に思ったよりも時間を費やしていること。
さらには、母校のサマーインターン選考にも少しアサインされており、フェルミ推定の概算をもとにしたケース面接の出題業界などのアドバイスを求められていること──。
どれもこれも、たとえ萌香に相談しようとしても、その前段階でため息が漏れ出てくるような内容だ。
だから俺は、萌香にそんなふうに聞かれると、いつも似たような言葉でお茶を濁してしまう。
「俺の話はいいよ。俺の悩みは、こうやって萌香の声聞くだけで消えちゃうからさ」って。
その言葉に、嘘はないつもりだ。
俺が“彼女”という存在に求めているのは、可愛くて、優しくて、一緒にいると癒やされること。
決して仕事のパートナーではないのだし、難しい話ができる必要はない。
萌香には、こうして疲れを癒やしてもらえるだけでありがたいのだ。
化粧品会社に勤める萌香に初めて会った時のことは、昨日のことのように覚えている。
「マッチングアプリって初めてで…。もしも正輝くんが怖い人だったら走って逃げようと思って、珍しくスニーカー履いてきたんです」
そう言いながらホッとした笑顔で足をパタパタする萌香のことを、俺は一瞬で好きになってしまった。
― この子と一緒にいられたら、幸せだろうなぁ。
そう強く思ったのに──。
この記事へのコメント