◆
「…菜穂?」
背後から聞こえたその声に、私は思わず体を強張らせる。新橋の海鮮居酒屋は、魚が焼けるいい匂いで充満している。
「ああ、蒼人。久しぶり」
「遅れちゃってごめん。なんだか最近忙しくて」
「人事は、春はバタバタだよね?わざわざ来てくれてありがとう」
蒼人はだまって横に座り、ビールを2杯頼んでくれる。
「…菜穂は、元気にしてた?転職した会社はどんな感じ?」
私は、懐かしい蒼人の香りを感じながら、自分を揺さぶっているカルチャーショックについて話した。
「前の会社は、年次文化が濃かったなって、今になって思うんだ」
「うん」
「歳を重ねただけで、自分のレベルが上がる感じがしてた。年次が上がれば昇進していける会社だしね。だからなのか、プライベートでもつい年齢を意識しすぎていた気がする」
ビールが来たので乾杯をしてから、私は、ゆったりと話を再会する。
「でも今は、感覚が変わったというか…。会社の中で、年齢を意識されることがいきなり減って、変な感じなんだ。急に生身になったというか。年齢で武装もできないし、逆にコンプレックスを感じる必要もない。すごくまっさらな感じなの」
蒼人がうなずいてくれたのがわかる。
「なんかいろいろ新鮮で、人間が変わった気分。蒼人といたときは…結婚のことで頭がいっぱいだったのに。急かしたり、試したり、ごめんなさい」
私はそこまで話して、初めて蒼人の目をしっかりと見た。
「今は、仕事に夢中なまま毎日が終わっていく。こんな感覚久しぶりで、すっごく楽しい」
疲れた体に、ビールがよく沁みる。私はいろんな話をしながら、それをスパスパと飲む。
こうして蒼人と会えて、うれしい。でも、その気持ちは少し前のものとは随分違う。そのことを思い知る。
◆
この関係を、なんと言ったらいいのか。
蒼人はそれ以来、私を頻繁に飲みに誘ってくれた。仕事の都合で断ってしまっても、しぶとく連絡をくれる。結果、私は深く考えずに、この4月はもう4回も蒼人と飲んでいる。
「あのさ…」
いつも居酒屋で私だけお酒が進んだ状態になったとき、蒼人は黙って私を見つめた。それから少し緊張した様子で口を開く。
「ちょっと話してもいい?」
「…うん?」
「僕、反省してるんだ。菜穂と付き合ってたころ、結婚というものがイメージできないっていうだけで、本気で考えず、菜穂の思いをはねのけて」
「…いいって。私がおかしかったんだから」
蒼人はワシャワシャと頭をかく。
「あのさ、菜穂。僕は菜穂と過ごしてた毎日を、家に帰るたびに思い出して、あの頃の自分が羨ましくなる。…落ち着いてて、あったかくて、純粋に幸せだった」
しばらく沈黙があって、彼は静かに言った。
「ねえ。戻れる可能性なんてないかな?今の楽しそうな菜穂を見ていると、僕は大事なものを逃してしまったって思うんだ」
― どんな表情をしたらいいかわからない。
「結婚前提に、やり直せないかな。もう、タイミングが違う?」
タイミングが違う。本当にそうだ、と私は思う。私が違う景色を見始めたときに、蒼人が近づいてくれて。
― やり直せるのか?
自問自答しながら、私は今になって自分の不誠実さを思い知った。あんなに結婚したかった蒼人の、どこが素敵なのか。パッと浮かんでこないのだ。
結婚相手がほしかっただけで、蒼人という人間と向き合ってこなかった証かもしれない。
「…菜穂。だめかな?」
私は、恐る恐る声を出す。
「たぶん、だめ。…今は」
蒼人の目を見る。
「でも今は心の余裕がある。今の状態で蒼人と向き合って、どう思うか。もう一回考えてみたい気持ちはある」
◆
それから、蒼人と時々会う関係になった。
基本的には、仕事終わりに。たまに、半日だけ出かけたりして。そうして2ヶ月が経ち、梅雨が明けて暑さが日本中を包んだ。
今日は、新宿で映画を見て、近くのカフェで感想を言い合っている。先ほどから鋭い考察を語り続ける蒼人を見ていて、私は思った。
― 決めた。
「蒼人」
「ん?」
蒼人の目を見る。
この人は、ただ優しいだけじゃない。思慮深くて、考えが鋭くて、しっかり言葉にしてくれる素敵な人だ。
付き合いたてのときこそそう思っていた気がするが、いつの間にか「30」という年齢の影に隠れて、蒼人の良さが見えなくなっていた。
表面的な「好き」だけを掲げて、ただただ焦り、遠回りをしてしまった。
30歳という年齢の「焦らせる力」はすごいと、つくづく思う。
― でも遠回りしたおかげで、見えたものがある。
今だって、子どものことを考えたら、結婚を急ぎたい。でも急いだってうまくいくわけじゃない。それを知ったから、気持ちに余裕が生まれた。
― だから今度は、この人のいいところをたくさん見つけながら、じっくり過ごそう。
その先で、どうなるかはわからない。やり直せばうまくいくという絶対的な自信があるわけではない。
けれどようやく今、大切な人を大切にできる自分が整ってきている気がするのだ。
「蒼人と…恋人としてまた一緒にいたいです。反省を生かして」
私が言うと、蒼人はうれしそうに笑った。
「え?本当に?」
「うん。それで、結婚についても考えたいと思ってる。もっとじっくり、時間をかけて」
テーブルの上にある私の手を、蒼人の白くて大きい手が包む。
時間が、ゆったりと流れている。
私は、蒼人の指先を撫で、その手をそっと包みかえした。
Fin.
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