妻の美保は僕より2つ年上の34歳。息子の櫂は、今月でちょうど6ヶ月になる。
「ふ…っ」
ふたり揃って全く同じ寝相をとっているのが面白くて思わず吹き出してしまうと、ハッと美保が目を覚ました。
「は…ごめん!寝かしつけしてたら一緒に…」
「ごめん、起こしちゃったね。寝てていいよ」
「でも、部屋も散らかってるし、洗い物もまだ済んでないの」
「大丈夫。部屋なんて気にしないよ。洗い物も、明日でいいから」
寝ぼけ眼の美保を気遣い、僕は静かに部屋着に着替えて寝室に出る。冷蔵庫からビールを取り出し、櫂の肌着が脱ぎ捨てられたままのソファに沈み込んだ。
と、その時だった。寝室からのそのそと美保が出て来て、シンクに立つ。
「寝てていいのに。櫂、夜泣きもすごいだろ?休めるうちに休んでおいたら」
「うん。でも、今日中に済ませちゃいたくて」
「そう?」
健気な姿にいじらしさを覚えた僕は、思わずソファから立ち上がる。そして、洗い物をする美保を背後から抱きしめて、思った。
― 美保のためにはなんだってしてあげたい。
美保には全く頭が上がらない。
まずは、女性経験がそんなに多くないこんな僕と結婚してくれたこと。
それになにより、大学病院に勤務する医師として多忙な毎日を過ごしている僕に合わせて、専業主婦になってくれたのだ。キャビンアテンダントは、美保にとってはかけがえのない天職だったというのに…。
もしかしたら、苦い過去でもあったのかもしれない。「男の人には、全力で仕事に向き合って欲しいの」と言ってくれたとき、少し寂しそうな微笑みを浮かべていたっけ。
けれどとにかく、美保が主婦業に専念してくれることになったおかげで、僕は仕事に集中できている。家のことも櫂のことも、すっかり美保に任せられるのはありがたかった。
当直がないクリニックなどの医師にでもなれば、もっと家族のそばについていられるのかもしれない。けれどそれでも大学病院にいたいというのは、僕の希望だった。
給料は安い。休みは少ない。当直だってある。だけど、今勤務している大学病院には尊敬できる先輩方がたくさんいて、刺激をもらえる。
特に、今はもう開業した脳神経外科の磯部先生からは色々なことを教えてもらった。
外科医としての素晴らしい技術に培ってきた経験。そして、患者さんへの向き合い方。結局は脳外ではなく消化器内科に進むことになったものの、磯部先生から学んだことは僕の医師としての礎になっている。
― だけど…ああいう癖だけは、参考にはならなかったな。
鍋を洗う美保の腰を抱きながら、僕は恩師の顔を思い出す。
磯部先生の悪い癖。それは、ご家族に隠れての女性関係だ。
磯部先生に限らず、いくつになっても“お元気”な先生が多いような気がする。仕事ができる人は、公私共にバイタリティが有り余っているものなのかもしれない。
だけど僕は、どうしてもそんな気になれない。妻と息子を愛しているし、それになにより…。
僕はもう、32歳。
分別のある大人だし、この歳になれば自分の身の程というものもわかってくる。
僕には、目の前のことだけで精一杯なのだ。
磯部先生や、他の偉大な先生方のようにはなれないかもしれない。けれど、そんな先生方から刺激をもらえて家族が健康に過ごせていれば、僕にはそれだけで十分だと思う。
「樹くん、いいからゆっくり座ってて」
そう言って微笑む美保は、ごはん茶碗を洗っていた。その他シンクにあるのは、空になった納豆のパック。たまった哺乳瓶。櫂のための離乳食の残り。
― これって、美保が食べたのは納豆ごはんだけってことだよな…。
きっと今の美保は、ゆっくり自分のご飯を食べる時間もないのに違いない。そう考えると僕は、いても立ってもいられないようなもどかしさを感じた。
櫂が生まれてからというもの、全くと言っていいほど美保と一緒に外食できていないという事実は、僕に取って強烈な引け目だ。
CAだった頃の美保は世界各国の美食三昧の毎日を過ごしていたのだし、ちらと聞いた過去ではたしか、元彼はフレンチのシェフだったはず…。
それが今は、家で納豆ごはんだけ。
― もともと超がつくほどのグルメだったのに、相当ストレス溜まるだろうな…。
僕が夕飯を食べる時にはきちんとした食事を準備してくれるけれど、本当は外食に行きたいに決まっているのだ。
その証拠に、ちょっとした空き時間にはいつもインスタやTikTokでグルメ情報ばかり見ているのを知っている。
だからこそ僕は、密かにあるプランを立てていた。
今週末の美保の誕生日には、とっておきのサプライズを用意してあるのだ──。
◆
「ねえ樹くん、本当に…?」
「本当だよ、びっくりした?」
「うん、びっくり。けど…」
迎えた美保の誕生日。驚いた表情を浮かべる美保を前に、僕は興奮を抑えきれないでいた。
僕が準備した美保へのサプライズ。それは、夫婦ふたりでのディナーデートだった。
この記事へのコメント
皆川先生、こんなにステキな奥さんがいて幸せだね。