量はそれほど食べられないし、大衆的でハイカロリーなものも受け付けなくなってきたのは事実。
けれども食は、大食漢でなくなっても、極上のものを少しずつ楽しむことができる。
今の時代、安くて美味いものもたくさんあるけれど、高くて美味いものには、味覚以外で味わうような…店ごとの魂のようなものがあるのだ。
高級レストランの数々は、僕のような年齢層の人々のためにあるんじゃないかと改めて思う。
多少持て余している小遣いは52歳にして、食への欲求を満たすことに費やされるばかりになってきた。
そして、そんな食への欲求を満たすのに必要なスパイスが、結城さんのような人なのだ。
― 若い人に、美味しいものを食べさせてあげたい。
これが、52歳にして新たにたどり着いた「食」へのスパイスだ。
高級店で1人で美食を味わうのは、意外に肩身が狭いものだ。
美味しいものは「美味しい」と口に出して、だれかと喜びを分かち合いたい。それが、人間の根源的欲求というものだろう。
かといって同格の人間と食事に行くのでは、つまらない仕事の話や、どちらが会計を持つかなんていう雑味が加わってしまう。
そこでたどり着いたのが、若い人たちに美味しいものを食べさせてあげることだった。
相手は別に女性じゃなくたっていい。それこそ、まだ何も知らない新子のような初々しさがあればいい。
大学病院に勤めていた頃は多忙の合間を縫って、可愛がっていた後輩の男の子…そう、皆川くんを、よく食事に連れて行ったものだ。
だけど、男子はやっぱりどうしても、家庭を持ったりしてしまうと誘うのに躊躇してしまう。
皆川くんとも彼の結婚を機に疎遠になってしまったけど、それは仕方がない。僕の二の舞を踏ませるわけにはいかないのだから。
というわけで結局52歳のオジサンは、こうした20代の美女を食事に連れて行くしかなくなるわけだ。
女性は若いうちからとにかくグルメへの関心が高いし、気持ちよく奢られてくれる。
美味しいものを食べたらいいリアクションで感動してくれるし、出世魚についてとかの食に関するちょっとした豆知識なんかに感心してくれると、やっぱり男として気分がいいものだ。
だからこそ、思うのだった。
― あーあ。結城さんも、もうそろそろ潮時か…。育ちすぎてしまった。
どんなに素晴らしい美貌を持っていても、我が物顔でグルメ通ぶるようになった女性は勘弁願いたいのだ。目的にそぐわない。
僕が稼いだ金で我が物顔で食通ぶり、感謝もしない。
それじゃあまるで、妻と娘と同じじゃないか。
大学生の娘と妻は、今は韓国だかどこかに2人して旅行に行っている。僕は、金だけを出す係だ。
大学病院で働いていた頃には、そりゃあ確かに家庭は顧みなかった。そんな余裕はなかった。
― いつか仕事が暇になったら…。
そう考えていたのにやっと時間に余裕ができてみれば、家族のなかに居場所を感じられないのは、一体何の罰だというのだろうか。
左手に結婚指輪をしていないのは、外科医の生活には不便だったからだ。
少なくとも──妻と娘には、うまくそう信じさせていたはずなのに。
「磯部さん。お酒次も同じもので?」
大将からの呼びかけに、僕は微笑みを取り繕って「頼むよ」と頷く。
この店が一流店たる理由は、大将の物覚えがいいことだ。一度話したことは、ずっと覚えていてくれている。
今日僕が飲んでいる櫻正宗も、数ヶ月前に僕が神戸の──灘の出身だということを覚えていてくれたのだろう。次来た時から、いいのがありますよ、と出してくれるようになった。
― 灘高にいた時は、まさか自分がこんなにバカになるなんて思わなかったな。
結城さんは、コノシロよりも新子のほうがずっと価値が高いということは知っているのだろうか?
まあ、どうでもいい。これ以上何かを教えても、期待するような感動は見せてくれないだろう。
僕はふと、先ほどの男性客に強い嫌悪感を抱いた理由が分かった気がした。
彼の姿が、過去の自分を見ているようだったこと。
そして、彼の目が──僕のようになりたいという、憧れに満ちていたからだ。
― あの目…。皆川くんは、僕のようになってはいないだろうか。
遠い記憶をたぐりながら、僕は新しく注がれた酒を飲み干す。
52歳にもなって心の中にこんな歪んだ孤独を抱えていることは、誰にも知られたくない。
だからこそ僕は、また新しい何も知らない若い子を、これからも美食の世界へと連れていくのだろう。
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成功者でありながら孤独を抱える医師・磯部。その後輩、皆川の日常
この記事へのコメント
うーん、結城さんは「業務の延長で一緒にお鮨食べてあげてるんだから残業代つけてよ」位思ってるかもしれないね。どうせクリニックの経費で落とすんでしょって。
52歳ではなく72歳かと思うほど。性欲はもうとっくに枯れてしまったようなものだ ? そうなん、早過ぎない?