「お。お疲れ」
いつも通り、愛想のないミチに迎えられ、ともみがBAR・Sneetに到着したのは20時過ぎ。
10時近くまでベッドでゴロゴロし、その後、部屋の掃除や洗濯などを済ませたともみは、ミチのお薦めのイタリアワインの生産者が来日しているということで、代官山で開催されたワインのインポーターが主催するテイスティングの会に、15時から参加した。
イタリア人の英語の聞き取りに苦労しながら、2時間程、プロセッコと赤ワインを中心に勉強させてもらい、その後、大輝を夕食に誘おうかと迷ったけれど、結局連絡できず。自宅近くの中目黒のビストロで1人で夕食を食べた後、Sneetに来たのだ。
ミチの目の前、カウンターの端の席に座り、いつものジントニックを頼んだ。忙しければ手伝おうと思っていたけれど、店内に客は3組ほどで、ともみが働く必要はなさそうだった。
「今日、大輝は来ないよ」
店内を見渡していたともみが、漫画ならば、バッ!と効果音が書かれそうな勢いで、その声の主であるミチを振り返る。お客様の状況を確認していただけだと、ただ事実を伝えたけれど、まるで言い訳をしているように響いてしまい、ともみは恥ずかしくなった。
「ほんとに違うんですよ。今日はただ、本当に、ミチさんのお酒が飲みたかっただけだから」
― ほんの少しは期待しちゃってたけど。
実は箱根旅行以来、まだ一度も大輝に会えていないのだ。
時間が過ぎれば過ぎる程、益々連絡しにくくなりそうで、ともみから何度か、大輝の近況を尋ねるLINEを送ってはいるものの、至極当たり障りのない…例えば、大輝が書いた脚本が、台湾の制作会社との合作映画になること、その映画にともみも共演経験のある昔馴染みの俳優たちが出るらしい、などのやりとりに留まっていた。
「いつでも連絡してくれていいからね」
と、箱根から東京へ戻る車の中で、大輝が言ってくれたことにともみはホッとした。けれど、それなりに気を遣われているのか、大輝の方から“会おう”という文章が送られてくることはなかった。
ともみとしても、“友達宣言”をしたものの、“異性の友人”とはどれくらいの距離を保つべきなのか計りかね、お互いが落ち着いたらご飯に行こうね、という文章をまるでコピペのように繰り返して送り続けているだけ。
落ち着く、というのはいつなのか分からぬまま、箱根旅行からもうすぐ1ヶ月が経とうとしている。
自分自身が、恋愛レベル初級にも満たないお子さまなのだと、生まれて初めての失恋に教わることになろうとは。恥ずかしくて苦笑いするしかない自虐を、美味しいジントニックに慰められながら、その作り手の手元に見入る。
― 相変わらず、キレイ。
新しくグラスワインの注文が入り、赤ワインのボトルをあけているミチの手さばき…とでもいうのか、動きがとても美しい。
ともみは美しい人間が好きだ。そしてそのセンサーは、顔やスタイルなどの外見に限らず、所作にも反応する。
ワインボトルの底をすっぽりと包んでもまだ余るミチの大きな手。骨ばっていて関節が歪んでいる指もあるし、手の甲にはいくつかの傷も見える。
無骨でゴツゴツとした、という表現がぴったりなはずの手が、ソムリエナイフを動かす度に色っぽく見えるのは、その所作に力みが一切感じられないからではないかと、ともみは思っている。
イノシシなどの野生動物の肉の美味しさは猟師の腕で決まるという。優秀な猟師は、獲物を最小限の傷で仕留めることができる。そして、その場で肉や皮を少しも無駄にすることなく、素早く丁寧に解体する。
つまり優秀な猟師は、手数が少なく、無駄に獲物を傷つけない。それが獲物への敬意へつながるのだと。
ともみは、誰から聞いたのかもう覚えていないその猟師の話を、ミチがソムリエナイフを扱う光景を見る度になぜか思い出す。
格闘家のような体に加えて、目の下や手の甲にある傷。それらが物語るであろうミチの人生や、生活を、ともみはこれまで詮索したことがなかった。が、ふと。
「ミチさんって…彼女とかいるんですか?」
自分でも思ってもみなかった言葉が出た。ミチにとってもそれは同じだったようで、じろりと黙ったまま、ともみを見て、そして言った。
「それってどういう意味の彼女?」
ともみは返事ができず、固まってしまった。
ミチが…微笑んでいたからだ。それも、ミチのことをよく知る人にしかわからないという、いつものほんの小さな表情の変化ではなく、誰が見てもわかる笑顔で、だ。
― こんな感じで笑うんだ。
「ワイン出してくるからちょっと待ってて」
その笑顔のまま客席に向かったミチを、ともみは呆然と見送った。そしてテーブル席のカップルにワインの説明をして戻ってきたミチに、ハッとした。
「ごめんなさい、彼女じゃなくても、付き合ってる人…恋人が、現在進行形でいたりするのかな、って」
勝手に女性が好きだと思い込んでしまったと、訂正し謝ったともみに、ミチがまた笑った。今度は(小さくだけど)声を上げて。
「……ミチさん…?」
驚き過ぎたともみに、ミチが、ああ、ごめん、と面白そうに続けた。
「オレの恋愛対象は女性。バイセクシャルでもないし、女性だけ」
「じゃあさっきの、どういう意味の彼女?っていうのは…?」
ミチの顔がググっと近づき、ともみはドキリと焦る。
「彼女っていっても色々あるのが大人だろ。ともみと大輝みたいにさ」
この記事へのコメント
凪の顔がどんなか気になるけれど、親権者の同意が必要な間は親に従って成人してから自分のお金で検討すればいいと思うけど。何言っても聞かなそう😂 あと愛さん元気そうで何より。
ルビーならこの小生意気なJKを手懐けた上でビシッと怒ってくれそうなのに。