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結果として“視察”は、失敗に終わった。
別に、何があったというわけじゃない。
どんな店をみても胸が躍ることはなかったし、デカ盛りやインバウンド用の“映えメニュー”を取り入れるつもりにもなれず。
さらには食事をしながらスマホに向かって失礼なレビューを続ける配信者などを目の当たりにし、より一層げんなりとした気持ちが押し寄せてきた…というだけだ。
銀座の行きつけのバーでしばらく気持ちを落ち着かせたものの、なんだかこのまま家に帰る気にもなれない。
結局また銀座にいるということもあり、飽き飽きとした気持ちを持て余しながら、もう一度フレンチの店に顔をだしてみることにしたのだった。
店の明かりは、もう落ちていた。
時刻は23時過ぎで、もう閉店から1時間以上が経っている。店内にはもう1人の客も残っていないはずだ。
けれど…ドアを開けた僕は、目の前に広がる意外な光景に眉をひそめた。
店内は薄暗く、客も、従業員もいない。
それなのに店のカウンターには、ずらりとグラタン皿が並んでいるのだ。
「なんだ…これ?」
思わず口をついて出た言葉に、厨房からぴょこっと三隅くんの顔がのぞく。
「あれっ、五味さん。結局戻られたんですね!ちょうどよかった。よければ、味見してくださいよ!」
「味見…?」
おずおずとカウンターに近づく僕に、三隅くんが熱のこもった声で力説する。
「はい。いくつか試作品を作ってみたんです。今日のランチで、アッシパルマンティエになかなか手をつけられないお客さまがいらっしゃったじゃないですか。
熱々が一番美味しいのは当たり前だけど、それって店側の都合かもな、と思って。ゆっくり過ごしたいお客さまもいらっしゃると思うので、冷めてもより美味しくなるようなレシピを新しく考えてみてるんです」
三隅くんに勧められるがまま僕は、試作品のうちの一つをひとくち口に運んだ。
「冷めてる…けど、うまい。バゲットによく合いそうだ」
「そうなんです!!」
僕の言葉に、三隅くんの顔がパアっと明るくなった。
朝の市場の買い付けからほとんど一日中ぶっ続けで働いているはずなのに、その顔には疲れは見えない。
それどころかキラキラと眩しく輝いて、僕は相対的にまた、自分の老いについて思い知らされるのだった。
よく見ると試作品はアッシパルマンティエだけではないようだった。
カロリーの低そうな皿がいくつか並び、口当たりの軽そうなデザートまで、さまざまな試作品が厨房に並んでいる。
厨房の端に設えられたデスクでは、パソコンが煌々と光っていた。エクセルの複雑なシートが開いてあり、その様子から見て、原価率などの計算までしているようだった。
「すごいね、三隅くんは…」
「何がですか?」
「今32歳だっけ?やっぱり気力あるよなぁ。若いっていいよな」
圧倒的なパワーは、やっぱり若さゆえのものなのだろう。遠い昔に自分が失ってしまった光は、特別まぶしく見えた。
「いやいや、何言ってるんですか。五味さんだってまだまだバリバリじゃないですか!」
気を使った三隅くんが、おべんちゃらをつかってくれる。なさけなくてすぐに否定しようと思ったけれど、次に三隅くんが言った言葉に僕は、うかつにもハッとさせられるのだった。
「いやだな、年寄りみたいなこと言わないでくださいよ。次は、どうするんですか?」
「…次?」
「はい。次、です。だって五味さんって洋食シェフだったのにフレンチも習得して。そのうえ鮨屋も、オーベルジュまで経営して。いつだって新しいことにチャレンジするじゃないですか」
「いや…俺、52だよ?」
「…?はい、そうですね!それで、次の50代はどんなことにチャレンジするんですか?僕、新しいことに挑戦しつづける五味さんがずっと憧れなんです」
三隅くんからの問いかけは僕にとって、まるで冷たい水で顔を洗ったかのように鮮烈な爽快感があった。
「そうか…」
思い出した。僕がここまで店舗数を増やしてきたのは、新しいことに挑戦するのが楽しかったからだ。
「この歳からでも、新しいことにチャレンジしたっていいのかな」
自分自身に言い聞かせるように呟いたその言葉は、三隅くんに聞こえていたかどうかわからない。
けれど三隅くんは、思い切り眩しい子どもみたいな笑顔で試作品のアッシパルマンティエを味見しながら言うのだった。
「新しいことに挑戦してる時って、楽しいですもんねー!僕、五味さんから学んだことの一番は、そこだなぁ」
そう言ってまた調理に戻ってしまった三隅くんを、僕は少し遠くからしばらく見つめていた。
カウンター席で試作品のアッシパルマンティエたちと席をならべながら、僕はそっとスマホを取り出す。
そして、映える料理の写真など一枚も撮ったことのないスマホで、ブラウザを立ち上げた。
また、新しい店舗を立ち上げるか?
けれど、そのアイディアを手に取るように確かめてみても、僕の心はあまりワクワクしない。
そこで…恐る恐る検索したキーワードは、こうだ。
<50代 司法試験>。
本当に、何歳からでもチャレンジできるんだろうか?
自信はない。確信もない。
だけど、さっきまでずっと胸に巣くっていた粘りつくような虚しさは、いつのまにか綺麗さっぱり消え去っていて――代わりに胸を満たしているのは、昔感じていたようなワクワク感なのだった。
― …後任は、とっくに見つかってるしな。
厨房からは、未来を祝福するような軽やかな鼻歌が聞こえている。
レシピに必要なのは、あとはどうやら、僕の覚悟だけらしい。
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32歳にして、飲食店の多店舗経営者から後継者指名を受けた三隅。そのプライベート
この記事へのコメント
いやー、お里が知れるわ。グルメぶって「ランチも妥協出来ない」とかどの口が言ってるんだ? 汚なく食べたり平気で残す奴が美食家ぶってるの、恥ずかしい。
減価率ではなくここでは原価率ですね。