「企画した側のくせに、すみません。僕、この4月に営業から人事部に異動したばかりで。入った頃には企画がもう固まってて、やめたほうがいいなんて言える雰囲気じゃなくて」
後輩に何度も謝られてしまい、私は身を固くする。
「えっと…そんなに謝らないでください」
「でも。昨日、桜庭さんの表情がずっと固かったから。やっぱり、この企画は良くなかったと思って、メールで謝ろうと思っていたところだったんです。そしたら偶然桜庭さんを見つけたので、声をかけてしまいました」
「ご配慮ありがとうございます。私は本当に大丈夫ですよ」
「…そうですか?」
「うん、楽しかったし。確かに、安西さんの話に、いいなあって思う面もあったけど、比較なんてしてないですよ」
言いながら、なぜか鼻の奥がツンとする。澤石さんの顔が、にじむ。
「え?桜庭さん、大丈夫ですか?」
「あ…いや」
「ああ…本当にすみませんでした」
― 違うって。…そんなふうに謝られたから、惨めで泣けてきたんだよ。
私は咄嗟に席を立ち、社員食堂を後にした。
◆
後輩に、涙を見せてしまった。
2日が経ったというのに、私の中にはまだ、胸焼けするような恥ずかしさがこびりついている。
社員食堂に行くとまた澤石さんに会ってしまう気がして、昨日も今日も、ランチはキッチンカーのお弁当にした。
もう、顔を合わせたくなかった。
「あ。桜庭さん、また会いましたね」
「ふわぁ!」
変な声が出てしまうほど驚いたのは、そこに澤石さんが立っていたからだ。
時刻は18時過ぎ。
まだまだ残業があるのでコーヒーブレイクに、オフィスの1階に入っているカフェに寄ろうとしたのが間違いだった。
「コーヒーですか?」
「あ、まあ、はい」
「僕もです。…あれ、桜庭さんはまだ残業ですか?」
澤石さんは、もう退勤するようで茶色の革製のカバンを持っている。私が無言でうなずくと、彼はさらりと「桜庭さんは、何飲みますか」と自分が支払う素振りを見せながら尋ねてくる。
「え?いいよいいよ。っていうか私が先輩だから私が…」
借りを作りたくない一心で阻止しようとしたが、澤石さんに「カフェラテでいいですか?」と聞かれ、私はつい「アイスカフェラテで」と答えていた。
「ありがとうございます。ごちそうさまです」
澤石さんからコーヒーを受け取ったが、立ち去り方がわからず、とりあえず話しを続けることにした。
「澤石さんは…あれなんですか?帰り際にコーヒーを飲むタイプ?」
「はい。残業せず帰れる日は、ここで1時間だけ本を読むと決めているんです」
澤石さんはカバンから、開高健のエッセイを取り出す。なかなかの渋いチョイスだ。
「あの、桜庭さん。よかったら今日、軽く飲みません?」
「いやいや。私は多分、あと2時間ちょいかかかるし」
「僕もこの本、ちょうどあと2時間くらいです」
「…ああ、そう?」
「はい、ここで待ってます」
私は無言でうなずいて、踵を返す。
一体どうなっているのだ。澤石さんのペースに飲まれてしまった。私はまるで海外の人に話しかけられたときみたいに、終始慌てていた。
― 飲みに行ったら、また謝られるのかな…。
うなずいてしまったものの、非常に気が重い。飲み代を奢ってコーヒー代の借りを返そうと思いながら、私はオフィスフロアに戻った。
この記事へのコメント
本を読む人でも残業してるのを2時間も待てるのはすごいこと。
もう謝ったし、人事部全体で決まったことだからこれい事の謝罪のためではないし、女として興味がなかったら絶対にできないことだと思います。良かったね。