2024.12.02
貴方の香りに恋して Vol.9翌週の水曜日、優佳は有休を取り、自宅にいた。なんとなく体がだるく、頭が重い。
長時間の通勤に耐える自信がなく、休みをとった。といっても、平日に家にいると、普段目につかないことが気になり始めたりする。
正義は全てがきちっとしていた。シンプルでミニマムなものを愛し、家も自分でできること、例えばベッドメイクやフローリングの掃除は、彼の担当だった。決まったところに、決まったものをしまって、潔癖まではいかなくとも、整った生活を好んだ。
だから、いつもは掃除しない場所、例えば、バルコニーを掃除してみたり、車の車内の掃除くらいしておこうと優佳は思いついた。
早速、ガレージにダイソンを持って下り、シートや足元を掃除する。正義が大切に乗っているフォルクスワーゲンは、車体に傷一つなく、内装だってたいして汚れてはいなかった。
優佳はなんとなく、グローブボックスを開けた。なんの意図もなく、そこに扉があったからだ。
「なんだろ?これ?」
車検証などが入ったファイルの上に、置かれたジップロックを手に取った。中には十数枚のレシートが入っている。財布がパツパツに膨らむのを嫌う正義は、レシートや領収証を別の場所にまとめているのは知っていた。
きっと、別にして忘れたのだろうと、優佳はジップを開封してみる。
なんの不安も警戒心もない時に限って、嫌な勘は働くものだ。優佳が見つけたのは、横浜や川崎エリアの駐車場やレストラン、映画館のものだった。
どれも2人分の支払い明細だ。
「まさか、浮気ってことはないよね…」
住み慣れた港区を離れ、引っ越して早々浮気なんてありえない、と思った。でも、事実が気になって仕方がない。
優佳は彼を問いただしてみることにした。すると…。
ミニマムな男は、思考回路もミニマムなのか?彼は、あっさりと浮気を認めたのだった。
「結構簡単に見つかっちゃったね」
まるで、点の悪い答案用紙が見つかった子どもみたいな態度の正義に、優佳はますます腹が立つ。
「すいません!!!」と平謝りするわけでもなく、黙りこむわけでもない。
優佳は床の一点を見つめ、静かに言い放った。
「出てって。顔も見たくない」
そして、優佳は玄関を指差した。
正義は言い訳する様子もなく、すんなりとリビングを出て行った。バタンとリビングのドアを閉めた時、あの香りがふわっと香った。
大きな窓から見える海、差し込む日差し、ベランダに干したリネン、優佳の幸せの象徴をまとめて香りに喩えたような香りが、場違いのように残った。
大切な思い出と香りを結びつけるための香りのはずだったのに。
「すべてがレプリカだったとは思いたくないけれど…」
優佳は、気持ちを落ち着けるように、お腹をさする。
ちょうど、妊娠2ヶ月だと発覚したのが昨日。正義に報告しようと思っていた矢先の出来事だった。
◆
あの出来事から1年半が経った。
無事出産を終え、10ヶ月の育休を経て、今日から優佳は職場復帰だ。
生まれた子どもは正義にそっくりの女の子。住まいは、湘南から引っ越し今は目黒に住んでいる。引っ越しのタイミングで2人は入籍した。
「沙耶ちゃん、もう赤ちゃんじゃなくなってきちゃったね」
優佳が抱き上げ、沙耶の頭皮の匂いをかいだ。
「もう匂いが違うよな。あの乳臭い匂いが懐かしいなあ」
そう言いながら、今度は正義が沙耶を抱き上げる。
正義もいまではすっかりパパの顔だ。
あの時、妊娠していなければ、どうなっていただろう。正義に一途に片想いしていた自分、そして束の間の住まいだった湘南の家、さまざまな記憶が、浮気という事実のもとでは、なんの意味も持たないと優佳は思う。
浮気が発覚した翌日、正義は優佳に謝るために自宅に戻ってきた。
最初正義は「魔が差した」と言い訳を並べていたのだが、優佳が妊娠の事実を告げると、必死の平謝りに変わった。
「やり直そう、もう一回チャンスをください」
「簡単にやり直そうなんて言わないで。自分の子どもが同じことされたら、あなたどう思う?」
優佳の問いに正義は項垂れ、心からの後悔を口にした。その様子を見ても、優佳にとって浮気は、到底許すことなどできない行為だった。
だが、妊娠中の体は日に日に変化していき、正義との関係をどうするか立ち止まる猶予すら与えない。
だから、優佳は、都内に引っ越すことを条件に水に流すことにしたのだ。湘南の明るい日差しや波の音、日曜日の朝の匂い…丸ごと封印し、また新たに幸せを探ろうと思った。
目黒では、湘南の家みたいに、広々とした空間は得られない。
リビングは沙耶のバウンサーやおもちゃでさらに狭くなったし、かつて正義がこだわっていたミニマムでおしゃれな空間とはほど遠い。
「じゃ、保育園の送り、お願いね」
優佳は、沙耶を正義に託し、一足早く家を出た。
しばらく歩いて目黒駅に着いた。
朝8時。久しぶりの通勤電車だ。
ホームに列車が滑り込み、車内から人が溢れ出てきた時、優佳の鼻腔を懐かしい香りがかすめた。
― レプリカだ。
誰かのつけているフレグランスなのだろう。しかし、それは瞬時に、かつての記憶と結びついた。海の見えるリビングで過ごす美しい日曜日。
― そんな時期もあったよね。
優佳は1人、クスッと笑い、電車に乗り込んだ。
この連載好きだから、久々に(今年初めて?) 更新が有って嬉しかったです。是非、毎週更新に戻してください!!
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