2024.10.23
マティーニのほかにも Vol.13密やかな雰囲気が壊れてしまったことで、佐藤は気分を害して席を立つかもしれないと、諒は思った。
けれど、諒の謝罪に対して佐藤が放った言葉は──予想していない意外な言葉だったのだ。
「あの…」
「はい?」
「勘違いだったらすみませんが…」
「はい」
「幸せになっても、いいと思いますよ」
「…え?」
グラスを拭く手を、諒は思わず止めた。佐藤の目線は、今は諒の手元ではなく、カウンターの端に注がれていた。
儚く、白く、美しい幽霊のように淡い光を放つ、マルゲリータ。
今度こそ諒は、“瑶子”の記憶の扉を開けざるを得なかった。
◆
「諒。アイオープナーのカクテル言葉は?」
「えーと…『運命の出会い』」
「正解!やるじゃん、諒」
「そりゃ、瑶子にあれだけ覚えろって言われたらね」
「えらい、えらい。バーテンダーの話題の引き出しは、多いにこしたことないもの。豊富な話題と、人を観察する目。愛する婚約者が一流のバーテンダーで誇らしいわ」
コーヒーチェーンのマグカップを片手に、そう言って諒の額にキスをするのが、瑶子のいつものクセだった。
藝大油画の非常勤講師だった瑶子と、新入生だった諒。1浪して藝大に入ったものの1年で中退し、アルバイトで始めたバーテンダーが諒の本職になった頃、2人は正式に恋人になり、諒が26歳の秋に婚約者になった。
額にされるキスは、15歳年上の瑶子に子ども扱いされているように感じたけれど、決して嫌というわけではなかった。
ただ、これから結婚して一緒になって、自分が40、50歳のオジサンになってもこうして子ども扱いされるのだろうか?と不思議に思っていただけだ。
まさか、27歳の額にキスしてもらうことさえできなくなるとは、考えもしなかった。
結婚式を挙げることなく、瑶子はいなくなった。
婚約してからたったの1ヶ月で、流れ弾に当たるような車の事故だった。
真っ白な布を顔に被せられた瑶子の前で、「人って婚約してても死ぬんだ」なんて意味不明なことを思ったことを覚えている。
「白い衣装は、結婚式までとっとけよ」と、冷たくなった瑶子に向かって笑えないジョークを言ったことも。
マルガリータが、このカクテルを発明したバーテンダーの恋人の名前だということは、瑶子のおかげでしっかり頭に入っていた。
事故で亡くなった恋人を偲んで作ったカクテル。
「諒。よくわかってるじゃない。えらい、えらい」
そう言ってもらえるような気がして、瑶子の命日にはいつもマルガリータを作るのが習慣になった。
額へのキスはない。
これから一生、恋人も、家族も作ることはない。
そう考えれば、たった1人生きていくだけの食い扶持が稼げればいいのだ。
ホテルのバーを逃げるように辞め、藝大からほど近い上野に小さなバーを開いた。
上野を選んだのは、もしかしたらふらっと瑶子が現れてくれるような気がしたからだ。たとえ、幽霊という姿でも。
もちろん、どれだけ待っても瑶子は現れない。そうしていつのまにか、瑶子が亡くなった時の年齢を超えていた。
◆
「いや、ごめんなさい。余計なお世話でしたよね」
恥じいるように頭を下げる佐藤の声で、諒はハッと意識を引き戻された。
「いえ、とんでもないです。あの、佐藤さん。どうしてそう思われたんですか?」
瑶子にまつわる胸の内は、過去の職場でも漏らしたことはない。不思議に思った諒がおずおずと尋ねると、佐藤は静かに答える。
「あの…カウンターの端に、マルガリータがありますよね。カクテル言葉は『悲恋』です。
それから…」
「それから…?」
佐藤はふっと、視線をドアの方へ移す。
「それから、さっきのゴーストの仮装をした女の子。彼女を見る小平さんの目が、すごく優しかったから…」
何も言えないまま諒が佇んでいると、佐藤は胸のポケットからすっと紙片を取り出し、カウンターに置く。
それは、三軒茶屋にあるバーの店名と佐藤の名前が書いてある、名刺だった。
佐藤のグラスは、ちょうど空になったところだった。着ていたジャケットの襟を正すと、現金でぴったりと会計を支払い、静かに席を立つ。
「すみません、やりにくいかと思って申し遅れました。僕もバーテンダーなんです」
「どうりで…」
「もう失礼します。どうしても仕事柄、人を観察するのがクセになってしまっていて。お気を悪くされたら申し訳ありません」
謝る佐藤に、諒はふっと微笑んで言った。
「とんでもないです。バーテンダーに必要なのは、豊富な話題と、人を観察する目。若い頃、ある人からそう教えられました。佐藤さんは一流のバーテンダーです」
恐縮しながら去っていく佐藤は去り際、閉まりかけのドア越しに諒に声をかける。
「お邪魔しました。ごゆっくり、おふたりで乾杯なさってください」
8席ほどのこぢんまりとした店内に、いつまでもその言葉が残っていた。
「ごめん瑶子、仕切り直しだ。──乾杯」
1時間前に作ったマルゲリータは、すっかりぬるくなっている。グラスの縁の塩も、シェイクした氷の粒もすっかり溶け、毎年飲んでいるマルガリータとは全く味わいが変わってしまっていた。
「美味くないな」というつもりだった。
けれど、そのかわりに諒の口から出たセリフは、似ても似つかないものだった。
「歳の差は関係ないことなんて、とっくの昔に俺たちが一番よくわかってるよな」
そしてリョウは、小さな声で言葉を続ける。
「なあ瑶子。時間が経ったら、氷が溶けたり、塩が溶けたり、味が変わったり……そういうこと、お前、許してくれるか?」
えらい、えらい。
どこかから、そんな声が聞こえたような気がした。
▶前回:「好きになっちゃった…」22歳・東大女子が初めて恋に落ちたのは、意外な相手で…
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:11月6日 水曜更新予定
最終回:諒にケジメをつけさせたバーテンダー・佐藤。彼の店にやって来たお客は…
何よりも泣けた。大事な人をある日突然失うのは本当に辛い事だよねぇ。15年も引きずってきた気持ちが少し楽になり、前に進めそうで良かったよ。この連載本当好き。
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