マティーニのほかにも Vol.14

10月になると思い出す元カノ。年上女に恋した42歳男が、独身を貫き通しているワケ

密やかな雰囲気が壊れてしまったことで、佐藤は気分を害して席を立つかもしれないと、諒は思った。

けれど、諒の謝罪に対して佐藤が放った言葉は──予想していない意外な言葉だったのだ。

「あの…」

「はい?」

「勘違いだったらすみませんが…」

「はい」

「幸せになっても、いいと思いますよ」

「…え?」

グラスを拭く手を、諒は思わず止めた。佐藤の目線は、今は諒の手元ではなく、カウンターの端に注がれていた。

儚く、白く、美しい幽霊のように淡い光を放つ、マルゲリータ。

今度こそ諒は、“瑶子”の記憶の扉を開けざるを得なかった。


「諒。アイオープナーのカクテル言葉は?」

「えーと…『運命の出会い』」

「正解!やるじゃん、諒」

「そりゃ、瑶子にあれだけ覚えろって言われたらね」

「えらい、えらい。バーテンダーの話題の引き出しは、多いにこしたことないもの。豊富な話題と、人を観察する目。愛する婚約者が一流のバーテンダーで誇らしいわ」

コーヒーチェーンのマグカップを片手に、そう言って諒の額にキスをするのが、瑶子のいつものクセだった。

藝大油画の非常勤講師だった瑶子と、新入生だった諒。1浪して藝大に入ったものの1年で中退し、アルバイトで始めたバーテンダーが諒の本職になった頃、2人は正式に恋人になり、諒が26歳の秋に婚約者になった。

額にされるキスは、15歳年上の瑶子に子ども扱いされているように感じたけれど、決して嫌というわけではなかった。

ただ、これから結婚して一緒になって、自分が40、50歳のオジサンになってもこうして子ども扱いされるのだろうか?と不思議に思っていただけだ。

まさか、27歳の額にキスしてもらうことさえできなくなるとは、考えもしなかった。

結婚式を挙げることなく、瑶子はいなくなった。

婚約してからたったの1ヶ月で、流れ弾に当たるような車の事故だった。

真っ白な布を顔に被せられた瑶子の前で、「人って婚約してても死ぬんだ」なんて意味不明なことを思ったことを覚えている。

「白い衣装は、結婚式までとっとけよ」と、冷たくなった瑶子に向かって笑えないジョークを言ったことも。

マルガリータが、このカクテルを発明したバーテンダーの恋人の名前だということは、瑶子のおかげでしっかり頭に入っていた。

事故で亡くなった恋人を偲んで作ったカクテル。

「諒。よくわかってるじゃない。えらい、えらい」

そう言ってもらえるような気がして、瑶子の命日にはいつもマルガリータを作るのが習慣になった。

額へのキスはない。

これから一生、恋人も、家族も作ることはない。

そう考えれば、たった1人生きていくだけの食い扶持が稼げればいいのだ。

ホテルのバーを逃げるように辞め、藝大からほど近い上野に小さなバーを開いた。

上野を選んだのは、もしかしたらふらっと瑶子が現れてくれるような気がしたからだ。たとえ、幽霊という姿でも。

もちろん、どれだけ待っても瑶子は現れない。そうしていつのまにか、瑶子が亡くなった時の年齢を超えていた。



「いや、ごめんなさい。余計なお世話でしたよね」

恥じいるように頭を下げる佐藤の声で、諒はハッと意識を引き戻された。

「いえ、とんでもないです。あの、佐藤さん。どうしてそう思われたんですか?」

瑶子にまつわる胸の内は、過去の職場でも漏らしたことはない。不思議に思った諒がおずおずと尋ねると、佐藤は静かに答える。

「あの…カウンターの端に、マルガリータがありますよね。カクテル言葉は『悲恋』です。

それから…」

「それから…?」

佐藤はふっと、視線をドアの方へ移す。

「それから、さっきのゴーストの仮装をした女の子。彼女を見る小平さんの目が、すごく優しかったから…」


何も言えないまま諒が佇んでいると、佐藤は胸のポケットからすっと紙片を取り出し、カウンターに置く。

それは、三軒茶屋にあるバーの店名と佐藤の名前が書いてある、名刺だった。

佐藤のグラスは、ちょうど空になったところだった。着ていたジャケットの襟を正すと、現金でぴったりと会計を支払い、静かに席を立つ。

「すみません、やりにくいかと思って申し遅れました。僕もバーテンダーなんです」

「どうりで…」

「もう失礼します。どうしても仕事柄、人を観察するのがクセになってしまっていて。お気を悪くされたら申し訳ありません」

謝る佐藤に、諒はふっと微笑んで言った。

「とんでもないです。バーテンダーに必要なのは、豊富な話題と、人を観察する目。若い頃、ある人からそう教えられました。佐藤さんは一流のバーテンダーです」

恐縮しながら去っていく佐藤は去り際、閉まりかけのドア越しに諒に声をかける。

「お邪魔しました。ごゆっくり、おふたりで乾杯なさってください」


8席ほどのこぢんまりとした店内に、いつまでもその言葉が残っていた。

「ごめん瑶子、仕切り直しだ。──乾杯」

1時間前に作ったマルゲリータは、すっかりぬるくなっている。グラスの縁の塩も、シェイクした氷の粒もすっかり溶け、毎年飲んでいるマルガリータとは全く味わいが変わってしまっていた。

「美味くないな」というつもりだった。

けれど、そのかわりに諒の口から出たセリフは、似ても似つかないものだった。

「歳の差は関係ないことなんて、とっくの昔に俺たちが一番よくわかってるよな」

そしてリョウは、小さな声で言葉を続ける。

「なあ瑶子。時間が経ったら、氷が溶けたり、塩が溶けたり、味が変わったり……そういうこと、お前、許してくれるか?」


えらい、えらい。


どこかから、そんな声が聞こえたような気がした。


▶前回:「好きになっちゃった…」22歳・東大女子が初めて恋に落ちたのは、意外な相手で…

▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト

▶Next:11月6日 水曜更新予定
最終回:諒にケジメをつけさせたバーテンダー・佐藤。彼の店にやって来たお客は…

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この記事へのコメント

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No Name
すごい綺麗にまとまっていて素晴らしい!!
何よりも泣けた。大事な人をある日突然失うのは本当に辛い事だよねぇ。15年も引きずってきた気持ちが少し楽になり、前に進めそうで良かったよ。この連載本当好き。
2024/10/23 05:2047返信1件
No Name
すごい深い! 様々な繋がりやヒントを散りばめて、ものの見事に全て回収してある。ハロウィンからの「うちは幽霊だって大歓迎」の意味とか、バーテンダーの恋人(マルガリータ)は猟銃の流れ弾にあたる事故で亡くなっていて瑶子の事故を同じように表現したり、年の差関係ない事は俺たちがとっくに分かってたとか。 アホな港区女子やら、ものもらい人のせい男の話とは大違い!
2024/10/23 06:0741返信1件
No Name
訳ありなマルガリータなんだろうなと思いながら読んだら、瑶子さんに捧げる献杯だったのね。 切ない…。そして佐藤さんの観察力もまたすごいから、再来週彼のバーに誰が来るのか楽しみだけど、最終回なんて残念でならない。
2024/10/23 05:5834
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