2024.10.21
恋のジレンマ Vol.8週明けのクリニックの待合室は、前回訪れたときよりも人の数が少なかった。
諒也は長時間待たされることを見越して早めに来たものの、スムーズな流れで診察を終え、会計の順番を待っている。
目の前の受付では、唯がカウンター越しに患者の対応にあたり、奥のスペースで有紀が事務作業をおこなうという、前回と同じフォーメンションとなっていた。
― やっぱりなんか気まずいなぁ…。
来訪時に有紀と目が合って会釈をしたが、会話は交わしていない。
唯に対しても、先日の件がどう伝わっているのかわからず、話しかけるのは躊躇われた。
まさに打つ手のない状況だった。
「吉沢さん」
抑揚のない声で名前を呼ばれ、受付に向かう。
目の前に唯がいるものの、分厚い透明な壁が立ち塞がっているような感覚がある。
― はぁ…。諦めるしかないのか…。
淡々と会計を済ませてクリニックの外に出る。
― まあ、女なんていくらでもいるか…。
わずかな未練を抱えながらも、ひとりの女に執着はしないと自分に言い聞かせながら歩き出す。
すると、しばらく進んだところで背後から名前を呼ばれた。
「吉沢さん」
少しだけ懐っこくも感じる呼びかけに反応して振り返ると、黒色のカーディガンを羽織った有紀が立っていた。
「あ、見上さん。どうも…」
「先日はありがとうございました。お礼を伝えるのが遅くなってしまい申し訳ありません」
「いえいえ。こちらこそ」
月並みな挨拶を終え、諒也がその場を離れようとすると、再び呼び止められた。
「私、気づいていました」
「え、ええ?」
「本当は私じゃなくて、鮎沢さんを誘いたかったんですよね?」
諒也はすぐには切り返せず、返答に窮してしまう。
「実は、昨日及川さんからも連絡が来て、謝罪を受けたので…」
言い訳の通用する状況でないと察し、観念した。
「本当に申し訳ありません」
諒也が頭を下げると、有紀が慌てて否定した。
「いいんですいいんです。私、とても楽しかったです。吉沢さんも、とてもいい方だと思いました。本当は早めに切り上げて帰りたかったはずなのに、あんなに楽しい話を聞かせていただいて」
「いやいや…」
「吉沢さん、とても紳士的な方だと思いました」
咎められても仕方のない立場であるにもかかわらず、まさかの称賛を受けてしまい恐縮する。
肩身を狭くしていると、有紀が思いがけない言葉を口にした。
「私、吉沢さんと鮎沢さん、お似合いなんじゃないかと思いました」
諒也は俯きながらも風向きの変化を感じ、ゆっくりと顔をあげた。
「鮎沢さんも優しくて性格がいいので、吉沢さんと合うんじゃないかと…」
― んん…ええ?どういうこと?
急な展開に思考が追いつかない。
「私でよければ、応援させてください」
「ええ…?」
「たいした力にはなれないけど、フォローくらいはさせて頂きます」
「ええっ!本当ですか!?」
― ここにきてまた味方が増えるなんて…。
急に吹き始めた追い風を受け、地に足がつかず、気もそぞろとなる。有紀をないがしろにせずに良かったと、諒也は胸を撫でおろした。
そして、不手際はあったもののあの場を設けてくれた葵に対して、感謝の思いが湧いた。
◆
仕事を終えて自宅に戻った諒也は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
勝利を確信したかのような心持ちで、勢いよくビールを喉の奥に流し込む。
「私でよければ、応援させてください」
有紀の言葉を思い出すと、笑みがこぼれる。
― この試合、もらったも同然じゃないか。
毎日のように職場で顔を合わせる間柄であれば、唯への影響力は小さいはずがない。
強力な助っ人を得て、すでにウイニングランに入っているような気分にもなる。
― そうだ。あいつにも連絡しておこう。
諒也はスマートフォンを手に取り、1通のLINEを送った。
『諒也:今日、クリニックに行ったときに有紀さんと話をしたんだけど…』
葵への現状報告だ。葵も支援者のひとりであり、いわばチーム諒也の一員である。
LINEを送るとすぐに返事が届いた。
『葵:すごい!それは心強いね!』
今回の件において、葵の働きは満足のいくものではなかったが、有紀を味方につける点においては貢献したと言える。
諒也は、一定の評価を与えていた。
そのとき、手に持っていたスマートフォンが震える。
画面には、InstagramのDMの通知が表示されていた。
― おっ、有紀さんからだ。インスタまでチェックしてくれるとは…。
忠誠心のアピールにも感じたが、メッセージの内容に表情を曇らせる。
『有紀:フォローさせて頂きます。ひそかに応援しております』
― え…?確かに『フォローする』って言ってたけど、こういうこと?
有紀の発言は、サポートの意思を示したものではなかったようだ。
文字通りの“フォロー”の意味だったとわかり、諒也は肩を落とす。
― しかも、『密かに』って…。おおっぴらに応援してくれていいんだけどな…。
期待していたのは全面的なバックアップであり、思っていた状況とは少々異なるようだった。
― まあでも、前進はしてるか…。
諒也は溜め息をつきながらも、それなりに手応えを感じていた。
大きな成果は、一朝一夕で手に入れられるものではないというのは重々承知している。
頼もしいとは言えないまでも味方を得ることができ、心願成就への気運が高まりつつあるようにも思えた。
「頼むよ、2人とも」
すると、再びスマートフォンに葵からLINEが届いた。
『葵:週末にまた有紀さんと飲みに行こうって話になったんだけど、吉沢くんも一緒にどう?』
― チームの結束を固めておくにはいい機会かもな。
以前の諒也であれば、関心のない女性からの誘いに応じることなどなかったが、今回ばかりは有益であると判断した。
参加の意思を示す返事を送ろうとすると、再びメッセージが入る。
『葵:今、有紀さんからLINEがあったんだけど、週末の件を唯さんにも伝えたら参加したいって言ってるらしい!』
「マジかっ!!」
メッセージが目に入ると同時に思わず声を発してしまった。
― こんなに早くプライベートで会えるなんて…。
長期戦を覚悟していただけに、進展の早さに驚きを隠せない。たとえ心許ない味方であろうと、数が増えることの強みを実感する。
― でも、あいつには前科があるからな…。
葵の失態を思い出し、メッセージを送り返す。
『諒也:誰かと間違えてないよな? 鮎沢唯さんでいいんだよな?』
チームの指揮官として強く念を押しつつも、諒也は、恋が本格的に始まる予感に胸を躍らせた。
そして、同僚女性という頼れる存在のありがたさを、心の底から感じるのだった。
▶前回:「内緒ですよ」とささやかれ…。新宿の眼科で28歳MRが惚れた、受付女性の“神対応”
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