2024.08.14
マティーニのほかにも Vol.9― 一体、どうしたんだろう…?
と、気が焦った時だった。
開けっぱなしになっていたドアの前を、足早に歩いていく音がする。この病院ではベテランの外科医だ。
「先生、すみません!あの…院長って、どちらかご存じでしょうか」
慌てて院長室を出て外科医を呼び止めると、くるりと振り返った外科医が言った。
「ああ、院長なら宿直室でしょ。いやぁ、昨日みたいな姿を院長直々に見せられちゃうとね…。
いくら採算とれないからって、小児科を閉めましょう…って、言えなくなっちゃうね。じゃあ」
「え、宿直室…ですか?」
医師の言っている意味が全くわからなかった由紀は、慌てて宿直室を訪れる。
するとそこには、ちょうど身支度を整えている父の姿があったのだった。
「院長」
「お、すまん。母さん心配してたか」
そう言う父の目の下は、くまが浮かんでいる。聞くと、昨夜帰宅をしようとした頃に入院中の小児患者の病状が急変し、院長である父自らが緊急手術に対応したとのことだった。
「みんな出払ってたし、小児だからね。当直の研修医よりは、いくらなんでも俺のほうがマシってもんだろう」
しょぼしょぼとした目をこする姿は、どこからどう見ても60歳半ばの老人だ。
けれど、疲れた目が。曲がった背すじが。しわがれた声が…白衣に袖を通した途端、堂々とした威厳を放つ。
術後の患者さんの経過を見に入院病棟を訪れ、ひとりひとりの患者と、子どもたちと目を合わせながら、安心感をもたらす笑顔を浮かべる父の姿は、ただの老人ではなく“医師”だ。
「子どもはね、宝物ですから。子どもが笑顔でいることが、なにより大事ですからね」
「先生は神様です」と恐縮するご家族に、決して偉ぶらずに伝える父の背中。
その高潔な白さに胸が思わず熱くなった由紀は、気がつけばこの日久しぶりに、定時を過ぎた20時半まで院長室で残業に取り組んだのだった。
すっかり暗くなった窓の外を見ながら、父がボソリと呟く。
「由紀、今日は遅いんだな」
「まあ、色々とやることがあったので…」
「…そろそろ帰るけど、車、一緒に乗って帰るか」
わざわざ聞いてくるということは父のほうも、この1ヶ月のあいだ由紀が自分を避けていることを気にしていたということなのだろう。
快利と別れさせられる前は、予定がなければ一緒に車に乗って帰ることが多かったから。
けれど由紀は、無機質な声で答える。
「いえ、乗りません」
少しかたくなさが緩んだとはいえ、父の車には今日も乗らないつもりだ。由紀のつれない答えに、父も淡白な響きで、「そうか」と返す。
しかし由紀の言葉は、ここで終わりではなかった。
「院長も…お父さまも、今夜は車は置いて行くことにしない?」
その夜、由紀が父にせがんで連れてきてもらったのは、銀座にある父の行きつけのオーセンティックバーだった。
こぢんまりとした飲食店ビルの地下へと下り、「会員制」のゴールドプレートがかかった重たい扉を開ける。
飴色に艶めく重厚な木製カウンターと、壁一面にズラリとならんだ国産ウイスキーのボトルの数々。由紀たちの他には、お客は誰もいない。
以前にも2、3回連れてきてもらったことがあるが、静かなクラシックが流れるこの落ち着いた環境であれば、父に、本当の気持ちを話せるような気がした。
無言のまま席に座ると由紀は、父が響のロックを頼もうとするのを制止して、バーテンダーに注文を伝える。
「…嫌味じゃないよ」
注文を済ませて、父に小さくそう告げたが、父から帰ってきたのは沈黙だけ。
間をおかず、短いステアの音がして、二つのロックグラスが目前に置かれる。
父と由紀の前に並んだのは他でもない、あの別れの引き金になった、琥珀色のゴッドファーザーだった。
無言のままグラスを持ち上げ、舐めるように一口味わう。
ウイスキーの深い味わい。アーモンドを思わせる甘い香り。25度という強い度数が、冷え切った心を溶かしていく。
「お父さま、私…」
本当は、わかっていた。
父が、快利とのことを応援してくれなかった理由なんて…わかっているに決まっている。
暑がりの快利の部屋で、上げられていた設定温度。
大金を手に入れて、自堕落に伸びた無精髭。
自分には似合わない色の、リップがついたグラス。
9年もの付き合いのあいだ、一度も出ない将来の話。
振り向いて欲しくて、必死に勉強したカクテルのレシピ本───。
そういったものに囲まれていた自分は、この9年、父に笑顔を見せることができていただろうか?
そんなこと、わざわざ父に確認するまでもない。
「お父さま、私…」
それ以上の言葉が出ない。代わりに、視界がどんどんぼやけていく。
けれど、そんな由紀の肩を、父はおずおずと抱き寄せて言った。
「すまん、俺はただ…。子どもには、笑っててほしいんだ」
「う、うぇ〜ん…」
途端に、由紀の目からとめどなく涙が溢れ出た。
「子どもはね、本当に、宝物だから…」
そう父が繰り返すたびに、自分の価値が変わっていく。ゴミ箱にでも投げ捨てたくなっていた自分自身が、大切なもののように思えていくのが不思議だった。もしかしたら、本当に父は、神様なのかもしれない。
まるで子どもの頃のようにしゃくりあげる由紀の泣き声のせいで、バッグの中で震えるスマホの着信は聞こえない。
度数の強いゴッドファーザーは、飲み切るのに長い時間がかかる。
ふたつのグラスが空になる頃には、どうしようもなく恥ずかしいけれど──。
父の前で、9年分の涙を出し切ってしまえるだろうか?
▶前回:色んな女とデートするけど、彼女は作らない29歳男。彼が唯一本気になった女とは
※公開4日後にプレミアム記事になります。
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:8月28日 水曜更新予定
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